投稿

大山捨松(山川捨松)は日本人として最初の看護教育を受け、看護婦免許の取得者

 問題の所在:大関和は日本で最初の看護婦(トレインド ナース)であったか? それを検証するために、つぎの論文から紹介したい。 秋山ひさ「 明治初期女子留学生の生涯 -山川捨松の場合- 」『論集』第31巻第3号、神戸女学院大学、1985年3月、81-104頁、 大山捨松(Sutematsu Ōyama) は明治15年(1882)6月14日に、 Poughkeepsie 、 New York州 にある Vassar College(正式には  Vassar Female College ) を卒業した。 その後、当時の学期制として当然な進学先のタイムスケジュールに合わせて、  New Haven Hospital(現 Yale Ne w Haven Hospital、 35 Park Street  New Haven, CT 06511 ) で学んだ。 ②大山捨松が学んだ  New Haven Hospital は、 Yale  School of Medicine (1810年創設)と密接に連携した 教育病院   primary teaching hospital で あった。 New Haven Hospital  自体は 1826年創設。 当時のアメリカには、現在のような州単位の看護師国家資格はまだ存在せず、 病院が独自に発行する「看護修了証・看護免状」が一般的であった 。 したがって山川捨松が取得した免許は、 New Haven Hospital  が運営する 看護研修課程プログラムを修了した証明書であった。この病院の特長は ナイチンゲール方式に基づく近代看護教育であった。 • 実地看護(bedside nursing) • 衛生・消毒法 • 包帯法 • 患者観察 • 食事・清潔・排泄などの基礎看護 • 軍陣看護に準じた応急処置 などを含む、ナイチンゲール方式に基づく近代看護教育でした。 ● 実地研修(clinical training)が中心 ① 1880年代 New Haven Hospital の clinical training の核心 ■ 1. ナイチンゲール方式の導入 アメリカで本格的な看護教育が始まったのは1873年で、 その「三大ナイチンゲール校」の一...

「看護」や「銃創看病人」ーー戊辰戦争従軍医 弘田親厚著『慶応四戊辰 会津征討日記 弐の巻』

①  丹野美子氏が「戊辰戦争従軍医 官軍弘田親厚 (ちかあつ) の日記」(『古文書に学ぶ日本史(下)』名著出版) ②慶応4年4月24日に「 銃創看病人 として此地の婦人九人雇入養生局に差置ける」 ③親厚が書き残した『東征道の記』『会津征討日記』には、 1,「銃創看病人」 2,看護主任 3、看護 などの用語がある。 ④訓練か未訓練の看病人か?

女性看病人から有志共立東京病院看護婦教育所、京都看病婦学校、 桜井女学校看護婦養成所へ至る道

要点: 「女性看病人」に関するメモ 横浜軍陣病院の「女性看病人」は「女性の看護者を雇用した日本最初の職業看護婦」 壬生城養生局の、戊辰戦争期における女性看病人は「銃創看病人」として直接に負傷者などの看護業務を担当。  ⇒ → 「銃創看病人」的役割を担う、近代看護の原型 会津藩・山国隊においては、「看護」と「洗濯・炊事」業務は明確に区別し、看護はその専門業務を担当。 ● 第 1 層:直接看護(女性看病人) 清拭・体位変換 食事介助 排泄介助 創傷の観察 包帯交換の補助 発熱・感染症患者の隔離補助 夜間の付き添い ● 第 2 層:診療補助(医師助手・若い藩士・雑役男) 患者搬送 麻酔・手術準備の補助 医療器具の洗浄 血液・排泄物の処理 → ウィリスの外科手術を支える技術的サポート ◆ ウィリス医療チームの階層モデル ● 1. 指揮層(医療・行政) ウィリアム・ウィリス(病院長) 外科手術 麻酔使用 医療方針の決定 女性看病人の採用 2,看護層(女性看病人)           直接看護(前述の通り)          患者観察          夜間看護 → ウィリスの医療哲学(清潔・観察・衛生)を体現した層 ◆ 年表( 1868 – 1890 ) ● 1868 (慶応 4 /明治元) 横浜軍陣病院開設(修文館・太田陣屋) 女性看病人を正式雇用(日本初の職業看護婦) 戊辰戦争各地で女性「銃創看病人」が活動(壬生城養生局) ● 1873 (明治 6 ) 横浜軍陣病院 → 十全医院へ移管   ● 1877 (明治 10 ) 博愛社(日本赤十字社の前身)創設 看護の制度化が始まる                                             ● 1885 – 1886 (明治 18 – 19 ) 有志共立東京病院看護婦教育所(慈恵) 京都看病婦学校 桜井女学校看護婦養成所 → 本格的な看護教育が制度化 <参考資料①>  サ ー ・ヒュ ー ・コータッ...

日本の看護が「家庭的看病」から公共的実践へ移行⇒横浜で実施された宣教師による看護教育

イメージ
  メアリー・E・キダー Mary Eddy Kidder  (January 31, 1834 – June 25, 1910) was an American missionary and educator 4 アメリカ人宣教師 横浜で**フェリス女学院(現: フェリス女学院 )**を創設 女性教育を通じて、 衛生観念や看護的ケアの重要性 を普及 👉 直接「看護婦」業務に従事していないが、女子教育の中に*「近代的看護の素地(清潔・観察・奉仕):概念を導入した点で重要。 宣教師系女性たち(無名の看護実践者) 横浜では、特定の個人名以上に重要なのが、 宣教師ネットワークとしての女性たち です。 主な活動 居留地や周辺での 医療補助・看護 貧困層や女性・子どもへのケア 衛生・清潔の指導(感染症対策) 特徴 キリスト教的「奉仕」の理念に基づく活動 医師(多くは男性宣教師)と連携 日本人女性への教育・影響が大きい 横浜における歴史的意義 これら外国人女性の活動は、 日本の看護が「家庭的看病」から公共的実践へ移行する契機 女性が社会的役割を持つモデルの提示 看護教育 ミッション病院 日本赤十字の活動 への間接的影響

横浜軍陣病院に関するメモ

  要点 日本初の本格的西洋外科病院 戊辰戦争の中央治療センター ウィリスによる近代外科・公衆衛生の導入 医療史・軍事史・横浜史の交点に位置する重要施設  1. 横浜軍陣病院の位置3説 (修文館・太田陣屋・大聖院) ● A. 修文館(神奈川奉行所の学問所) 所在地:横浜市西区野毛山周辺 現在の地形でいうと「野毛山動物園〜野毛山公園」一帯か ここが軍陣病院の 主要病棟 ● B. 太田陣屋 野毛山の南側斜面にあったとされる 修文館と近接し、 増設病棟または兵站拠点 として利用された可能性 現在は遺構が残らず、正確な位置は推定 ● C. 大聖院(臨時病棟・墓地) 患者増加時に臨時病棟として使用 死亡者の埋葬地としても機能 現在も寺院として現存  横浜市西区元久保町5–20 ◆ 2. ウィリスの医療ネットワーク図 ウィリアム・ウィリス(英国公使館医官) ● A. 横浜ノード(軍陣病院・居留地医療) 横浜軍陣病院(病院長) 横浜ディスペンサリー(薬局) 天然痘病院(予防接種・公衆衛生) 外国人居留地の診療 機能:外科手術・感染症治療・公衆衛生 ● B. 京都ノード(薩摩藩野戦病院) 相国寺・養源院での外科手術 西郷隆盛・大山巌らとの連携 麻酔・消毒の導入 機能:野戦外科・救命処置 ● C. 大阪ノード(外交官業務+医療) 神戸事件の負傷者治療 外交団随行医官としての活動 機能:外交医療・緊急外科 ● D. 東北ノード(北越戦線・会津戦争) 北越戦線軍陣病院 敵味方を問わない治療(赤十字精神の萌芽) 機能:野戦病院・捕虜救護 ● E. 東京ノード(医学校・病院創設) 東京医学校兼病院(東大医学部前身)創設 看護人(女性)採用の先駆 機能:教育・制度構築 ● F. 鹿児島ノード(医学校創設) 鹿児島医学校(鹿児島大学医学部前身)創設 機能:地方医学教育の基礎形成 ◆ 3. 戊辰戦争の医療体制モデル ● A. 動病院(前線移動型) 戦線とともに移動 応急処置・止血・包帯 例:奥羽出張病院の分院 役割:一次救命 ● B. 不動病院(後方固定型) 一定の地に留まり、重症者を治療 医師・看病人・人足が配置 例:白河口・潟口の後方病院 役割:二次治療・安定化 ● C. 中央病院(横浜軍陣病院) 東日本の重症者を集中的に治療 外科手術・麻酔・消毒を実施 ウィリスが統括 役...

明治11(1878)年7月に設立された「官立脚気病院」

明治11(1878)年7月8日設立の官立脚気病院は、 日本で初めて明治政府が主導した臨床研究施設である。 要点① 漢方と西洋医学を同条件で比較した最初の試み 要点②日本における医療行政の出発点 さて、明治初期、 日本では脚気と  結核は2大国民病 と呼ばれるほど深刻な疾病であった。当時、明治天皇を脚気に罹患していたので、天皇より2万3千円の交付を受けて、官立脚気病院と東京 癲狂院が設立された。 官立脚気病院は、 設立主体:内務省(衛生局長:長与専斎) 設立地:東京・神田神保町(旧英語学校跡)に仮病院、その後、向ヶ丘弥生町(現東京大学農学部)に移転。 開院日:明治11年7月8日 であった。 脚気病院設立ノ儀 資料① 件名標題 脚気病院設立ノ儀 レファレンスコード A07060756000 所蔵館における請求番号 記00599100(所蔵館:国立公文書館) 明治十一年二月 田口乾三  調査局  内務省脚気病気病院設立之儀 審案状の処申向之趣ハ、衛生上必要之儀ニ付御聞届相成度相乗左按取調相伺侯也  御指令案  伺之趣聞届御条金額大蔵省ヨリ所受取事  大蔵省御達案  別紙内務省伺 脚気病院設立之儀ニ通及指令案金額方認可取計申侯相達侯事  <資料②>  明治十一年三月十五日、内務卿大久保利通から東京府への通達  「東京府 今般、内旨ヲ奉ジ、脚気病院、願狂院設立二付、思召ヲ 以テ金二万三千円下賜候条右費用ノ内へ可差加旨御沙汰 候事。 明治十一年七月二十三日宮内省」  <資料③> 本二百三十七号 明治十一年七月十七日  勲四等佐々木東洋 脚気病院 委員被仰付度儀  勲四等佐々木東洋 脚気病院 委員被仰付度旨昨十五日上申致置候処右者差急キ候儀ニ付可相成至急御裁下相成候様御取計有之度此段及御依頼候也  十一年七月十六日 内務書記官 太政官書記官御中  勲四等 佐々木東洋 右者 脚気病院 委員被仰付度此段上申候也  明治十一年七月十五日 内務卿伊藤博文  太政大臣三条實美殿 <資料④> 脚気病院ヲ廃シ該病審査ノ事ハ医学部ニ於テ管掌 件名標題 脚気病院 ヲ廃シ該病審査ノ事ハ医学部ニ於テ管掌 レファレンスコード A15110...

『保健婦助産婦看護婦法(昭和23年法律203号)』で削除された第4条の復元

 元の「第四条」には何が書かれていたのか? つまり『保健婦助産婦看護婦法(昭和23年法律203号)』「第四条」は、昭和26年に公布された法律第147号によって削除された。 昭和23年公布時の第四条の内容は以下の通りであった。 第四条(制定当時の内容:要旨) • 保健婦・助産婦・看護婦の免許は厚生大臣が与える • 准看護婦の免許は都道府県知事が与える つまり、 免許権者(誰が免許を与えるか)を規定した条文 第10回国会 衆議院 厚生委員会 第22号 昭和26年3月31日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム シンプル表示 会議録情報  昭和二十六年三月三十一日(土曜日)     午後零時二分開 002・青柳一郎 ○青柳一郎君 ただいま上程になりました保健婦助産婦看婦護法の一部を改正する法律案の提案理由を御説明申し上げます。  この法律案は御存じのように小委員会をつくりまして、小委員会の並々ならぬ御努力によりまして、やつとでき上つたものでありまして、皆さんすでに御存じのところでありますので、簡単に申し上げようと存じます。  現行法は昭和二十三年の七月に制定されたものでありますが、いたずらに看護婦、保健婦、助産婦の素質の向上に急のあまり、必要な各種養成所、学校などの設置要件も厳格でありますので、従つてその設置数が少く、その卒業生の数が減少しつつありますため、国民保健上必要な看護婦、保健婦、助産婦の数を確保することが、きわめて困難な現状にあるのでございます。特に過日本委員会におきまして議決せられました結核予防法の施行と相まちまして、結核予防には看護婦数を増加することが必要でありますので、今回准看護婦の制度を設けまして、数の増加による看護力の増強をはかるとともに、従前都道府県知事の免許を受けておりまする看護婦は、一定條件の講習を受けることのみによりまして、厚生大臣の免許を、すなわち国家登録に切りかえようとするのが、本法案提出の理由であります。  次に本法案のおもな内容を申し上げますれば、第一は甲種看護婦、乙種看護婦の別をなくなしまして、看護婦を准看護婦に改めたのであります。すなわち新たに都道府県知事の免許する准看護婦制度を設けまして、乙種看護婦のごとき業務制限をこれに付さないことにしたのであります。  第二はこの准看護婦であつて、三年以上業務に従事して...