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日本統治期に存在した元山の病院および看護学校

  1. 主要な病院 1. 主要な病院 元山慈恵医院 (元山府立病院) 日本統治下の朝鮮では、各道に「慈恵医院」という官立病院が設置されました。 • 変遷: 当初は朝鮮総督府直轄の「慈恵医院」として設立され、後に地方制度の変更に伴い「咸鏡南道立元山病院」、あるいは「元山府立病院」として運営されました。 • 役割: 地域における中心的な公的医療機関であり、近代的な設備を備えていました。日本人・朝鮮人の双方を対象としていましたが、主に公務員や都市住民の利用が中心でした。 元山労働者病院 (1928年〜1929年) 歴史的に非常にユニークな存在として知られています。 • 特徴: 1928年、元山労働総同盟によって設立された、朝鮮で初めての**「労働者による、労働者のための自律的病院」**です。 • 意義: 組合員が資金を出し合って運営し、安価な医療を提供しました。しかし、1929年の「元山総罷業(ゼネスト)」の際、当局の弾圧により閉鎖されました。 キリスト教系病院 (宣教病院) 元山にはカナダ・プレスビテリアン(長老派)やアメリカ南メソジスト監督教会などの宣教拠点が置かれており、民間のキリスト教系病院も活動していました。 2. 看護学校と看護教育 当時の朝鮮における看護婦(現在の看護師)養成は、主に官立病院の附属養成所、または私立の宣教病院で行われていました。 • 元山病院附属看護婦養成所: 咸鏡南道立元山病院(または府立病院)には、看護婦を養成するための付設機関がありました。当時の制度では、病院で実務を学びながら講習を受け、試験に合格することで免許(資格)を得る形態が一般的でした。 • 宣教病院での教育: キリスト教系の病院では、欧米の看護教育カリキュラム 1. 主要な病院 元山慈恵医院 (元山府立病院) 日本統治下の朝鮮では、各道に「慈恵医院」という官立病院が設置されました。 • 変遷: 当初は朝鮮総督府直轄の「慈恵医院」として設立され、後に地方制度の変更に伴い「咸鏡南道立元山病院」、あるいは「元山府立病院」として運営されました。 • 役割: 地域における中心 元山慈恵医院 ( 元山府立病院 ) 日本統治下の朝鮮では、各道に「慈恵医院」という官立病院が設置されました。 • 変遷 : 当初は朝鮮総督府直轄の「慈恵医...

日本統治期朝鮮半島に存在した産婆学校・講習所

  産婆学校・講習所の通史的一覧 日本統治期朝鮮における産婆学校・産婆講習所の通史的一覧(1910–1945) 1. 総督府・官立系(医専・病院付属) 区分 名称(日本語表記) 所在(当時) 設置主体 備考・おおよその時期 官立 京城医学専門学校附属産婆講習所 京城府 朝鮮総督府 1910年代半ば以降。総督府直轄の中核的産婆養成機関。 官立 平壌医学専門学校附属産婆講習所 平壌府 朝鮮総督府 1920年代以降に整備。北部地域の中核。 官立 大邱医学校(のち医専)附属産婆講習所 大邱府 朝鮮総督府(のち道) 慶尚北道一帯を対象とする養成機関。 官立 釜山医学校(病院)附属産婆講習所 釜山府 朝鮮総督府/慶尚南道 南部港湾都市圏をカバー。 官立 全州医学校(病院)附属産婆講習所 全州府 全羅北道(道立) 道立医療機関に併設された講習所。 官立 光州医学校(病院)附属産婆講習所 光州府 全羅南道(道立) 南西部の産婆養成を担う。 官立 咸興医学校(病院)附属産婆講習所 咸興府 咸鏡南道(道立) 北東部の拠点。 ※名称は時期により「医学校」「医学専門学校」「道立病院」など変動し、産婆教育も「講習所」「養成所」「産婆科」などと呼称が変わります。 2. 道立・府立病院付属の産婆講習所 多 区分 名称(代表的表記) 所在 設置主体 備考 道立 京畿道立病院附属産婆講習所 京城府ほか 京畿道 京城医専と連携しつつ地域産婆を養成。 道立 忠清南道立病院附属産婆講習所 大田など 忠清南道 農村部向けの産婆供給源。 道立 忠清北道立病院附属産婆講習所 清州など 忠清北道 1920–30年代に設置。 道立 黄海道立病院附属産婆講習所 海州など 黄海道 北西部を担当。 道立 平安南道立病院附属産婆講習所 平壌周辺 平安南道 平壌医専と役割分担。 道立 平安北道立病院附属産婆講習所 羅津など 平安北道 北辺地域の産婆養成。 道立 咸鏡北道立病院附属産婆講習所 清津など 咸鏡北道 1930年代に整備が進む。 3. 私立・宣教...

千葉産婆学校 

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千葉産婆学校に関する記事の紹介 「  明治20年、高梨美津が創設。美津は安政5年、平郡佐久間村(現鋸南町)に生まれ、難産の経験から助産婦を志す。学校は、産科名医の飛田良吉を講師に迎え、無試験で開業免状が与えられたことから、入学希望者が殺到した。寄宿所には常に20名ほどの寄宿生がいたとされる。敷地面積およそ500坪、県庁舎近くの公的施設の集中する一帯にあったが、周囲の水田が当時ののどかな風景を想像させる。学校は、昭和18年に閉鎖。」 デジタルミュージアム『日本博覧図』~私立千葉産婆学校 千葉県立博物館のHPよりの転載 学校 しりつちばさんばがっこう 高梨美津は、安政5年(1858)安房郡佐久間村(現鋸南町) の医師高梨安節の娘として生まれました。平 群村(現南房 美津が産婆を志したのは、自分自身も難産で子を失い非 常に苦しんだ経験から、産婆の必要性を強く感じ、高梨文策に嫁ぎましたが、夫が急逝したため実家 に戻ります。その後、上京して東京府病院で産婆学を学び ました。 卒業後、産婆の開業免状を取得した美津は、明治18年 (1885)千葉市原産婆講習所を開設、同20年に産婆授業所、 その翌年には私立千葉産婆学校と改めました。これは、千 葉県下で最初の産婆学校といわれています。明治22年に は校舎を千葉町長洲(現中央区長洲)に新築し、盛大な開 校式を行いました。 当時、校主である美津の産婆術は高く評価されており、 県立千葉病院から産科・婦人科の専門医を招いて学校での 教育内容も充実させていました。また、卒業者には無試験 で開業許可が与えられていたため、関東各地から入学希望 難産者を救いたい」と思ったためでした。いつの時代も出 産は命がけのものですが、「棺桶に片足を入れて産む」と いうことわざがあるほど、明治期の出産は妊産婦死亡率が 非常に高かったのです。明治後期からは、近代的教育を受 けた「新産婆」が増えたことも一因となって、妊産婦の死 亡率は徐々に減っていきました。明治・大正期の千葉県に おいて、美津は「新産婆」の養成に大きく貢献していたと いえるでしょう。 大正11年(1922)に美津が亡くなった後、美津の養 女となっていた姪の高梨ちせが学校を受け継ぎ、昭和18 年(1943)に閉鎖を迎えるまで多くの産婆を養成しました。 *参考文献 『千葉県の歴史 通史編 近現...

陸軍軍医 村井静夫

 出典: https://shirakaba.link/betula/%E6%9D%91%E4%BA%95%E9%9D%9C%E5%A4%AB むらい しずお 村井靜夫 陸軍二等軍医正 従五位勲三等功五級 衛生部 愛知県士族 慶応2年11月4日 -  経歴 姉たつは名古屋株式取引所相談役 荒川伊八 に嫁す [ 1 ] 慶応2年11月4日 生 [ 2 ] 好生館に学ぶ [ 2 ] 明治25年 医術開業試験及第 [ 2 ] 明治27年12月25日 任 陸軍三等軍医 [ 3 ] 明治31年1月20日 任 陸軍二等軍医 [ 3 ] 明治34年11月3日 任 陸軍一等軍医 [ 3 ] 明治41年3月31日 任 陸軍三等軍医正 [ 3 ] 補 歩兵第4聯隊 附 [ 4 ] 明治42年6月7日 補 横須賀衛戍病院 長兼 東京湾要塞司令部 附 [ 5 ] 明治43年10月1日 任 朝鮮総督府道慈恵医院医員 叙高等官五等 [ 6 ] [ 3 ] 明治45年5月16日 京畿道水原慈恵医院長ヲ命ス [ 7 ] 大正2年4月11日 朝鮮総督府道慈恵医院医官(改称) (朝鮮総督府地方官官制改正により官名変更) 京畿道水原慈恵医院長ヲ命ス [ 8 ] 大正3年6月30日 昇叙高等官四等 [ 3 ] 大正4年6月29日 任 陸軍二等軍医正 [ 9 ] [ 10 ] 大正5年3月25日 依願免本官 [ 11 ] 大正5年7月5日 予備役 被仰付 [ 12 ] [ 10 ] 愛知県 名古屋市 に村井医院開業 [ 2 ] 大正10年4月1日 後備役 編入 [ 13 ] [ 10 ] 栄典 明治28年11月18日 明治二十七八年従軍記章 [ 14 ] 明治29年5月23日 勲六等瑞宝章 賜金 100円 [ 15 ] 明治35年2月20日 叙 正七位 [ 16 ] 明治39年4月1日 功五級金鵄勲章 (年金300円) 勲四等旭日小綬章 明治三十七八年従軍記章 [ 17 ] 明治40年5月20日 叙 従六位 [ 18 ] 明治43年3月14日 大韓帝国 勲三等八卦章 [ 19 ] 明治45年6月21日 叙 正六位 [ 20 ] 大正1年8月1日 韓国併合記念章 [ 21 ] 大正5年8月4日 叙 従五位 (特旨) [ 22 ] 昭和15年11月10日 紀元二千六百年祝典記念章 [...