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『We Grow Up』(日本語版書名は『我々は成長する』)J. L. KAUKONEN 著」「瀧澤勝・瀧澤稔子 共譯」、昭和23年(1948年)2月20日印刷、2月25日発行、

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  『GHQ/SCAP Public Health and Welfare Weekly Bulletin 』の  No.45、 1947年11月2日〜11月8日 SECTION IV NURSING AFFAIRS DIVISION 第IV節 看護課 には、Weekly Status Reportとして、 The pamphlet “We Grow Up” has been completed in Japanese and will be on sale soon. の記事がある。その訳文は「パンフレット『We Grow Up』の日本語版が完成し、まもなく販売される予定である。」であろうか。  ところで、メリーランド大学所蔵の「プランゲ文庫(Gordon W. Prange Collection)」現存資料の表紙・扉により、日本語版の書名は『我々は成長する』と確認できる。扉には「J. L. KAUKONEN 著」「瀧澤勝・瀧澤稔子 共譯」、表紙には「G.H.Q. 公衆衞生福祉部・推薦」と記されている。奥付には、昭和23年(1948年)2月20日印刷、2月25日発行、定価35円、発行所・株式会社クロニック社と記されている。 なお、この価格表示は、No.45の “will be on sale soon” を「販売される予定」と訳すことに対応する資料となる。No.45は1947年11月2日〜8日の報告である。一方、今回確認した現存資料の奥付は1948年2月25日発行となっている。 したがって、「1947年11月には日本語版の完成と近く販売する予定が報告され、今回確認した刊本には1948年2月25日の発行日が記されている」と分けて記述する。 この時間差だけから、刊行延期があったことや、1947年中に別版が刊行されたことを断定しない。 また、表紙の「推薦」はGHQ公衆衛生福祉部との関係を示すが、同部が著作・翻訳・発行を担当したことまで意味するものではないものの、当時の出版事情を考えると、GHQの強力なバックアップで出版にこぎつけたことは間違えない。 典拠: 我々は成長する - 国立国会図書館デジタルコレクション

Johns Hopkins Hospital School of Nursing時代のGrace Altさん

 hns Hopkins の公式記録でも、 Grace Elizabeth Alt, R.N., Johns Hopkins Hospital School of Nursing, 1933 と卒業歴が確認できます。 JScholarship 1.Altが受けたのは「3年間の病院看護婦養成教育」 Johns Hopkins の Chesney Medical Archives によれば、この学校の教育は当時、**3年間の厳格な課程(rigorous three-year program)**で、 講義(lectures)+ Johns Hopkins Hospital の病棟での臨床実習(experience on the hospital wards) を組み合わせる方式でだった。現在の大学看護学部とは違い、 病院附属の専門職養成学校 であった。 Chesney Archives Altは  1930年に入学し、1933年に卒業したと考えて良いだろう。その 1930~33年というAltの在学期間そのものに関する一次史料が、Johns Hopkins の Alan Mason Chesney Medical Archives に残っているので、つぎに紹介したい。 2)Altの教育責任者は  学校の記録によると、Alt 在学時の学校トップ(校長)は Elsie M. Lawler であった。Lawler は1910~1940年まで Superintendent of Nurses 兼 School of Nursing の責任者として、在職した。Johns Hopkins Archivesによると、Lawler時代について、病院の急速な専門分化に対応して、 新しい診療科・専門領域を看護教育カリキュラムに取り込んでいった と説明している。 Medical Archives  しかも、Alt が入学したまさに 1930年 に、もう一人重要人物がHopkinsへ戻ってきた。 Hester K. Frederick です。Frederick は1930年から First Assistant Superintendent。しかも後に刊行した A Textbook of Nursing Practice (1938)は、 彼女がJohns Hopkins...

日本GHQ看護史研究者に欠けていた分析視点は?ーー 「GHQ看護教育改革のアメリカ国内における思想的・制度的前史」ーー米国国内の看護教育改革 → Alt / Sharrocks の専門形成 → 日本・韓国占領下の看護教育改革

 今、 米国における第一次大戦期から看護教育の標準化・教育方法・図書館整備を継続的に制度化しており、その蓄積が第二次大戦中の大量養成と戦後改革の基盤になった ことに関心を持って研究を進めている。 特に重要なのは、NLNE(National League of Nursing Education)の系譜である。1914年に教育課程の標準化が議論され、1917年には最初の Standard Curriculum for Schools of Nursing が刊行された。これは画一的な強制基準ではなく、「望ましく実行可能な共通標準」を作ろうとしたもの。実際、1917年版には、看護を単なる一病院の労働力ではなく national service として捉える発想が明確に現れていることに、注目したい。 NLM医療史ファインディングエイズ  書誌上は1917年、1918年、1919年、1922年など複数版が確認でき、内容も「教育課程」だけでなく、 教員、入学基準、教育設備、教授法、実習、Public Health Nursing、参考文献 まで含んでいる。特に関心を払うべきは、第一次大戦期には、すでに「何時間教えるか」だけではなく、 どう教えるか、どの教材を使うか、どんな実習環境を整えるか まで体系化されていたわけことである。 Google Books  さらに1937年には A Curriculum Guide for Schools of Nursing が689頁もの大部なテキストへと結実している。章立てには   Philosophy and Aims of the Curriculum、 Standards and Specifications、 teaching techniques、 nursing experience、 supervision   などが並んでいる。このテキストを見るだけでも、1920年代の「標準課程」から数歩進んで、 カリキュラムそのものを教育学的に設計する段階 に入っていたことを教える。  A Library Handbook for Schools of Nursing (1936)は、決して脇役ではありません。 「看護学校には図書館が必要である」 「どの本を置くべきか」 「学生が自ら調べて学習できる環境を...

Altの看護思想が「制度化された形」のPrinciples of the Nursing Procedures

 Altの看護思想が「制度化された形」 Kango jisshu =: Principes of the nurtsing procedu 第1章 看護の基本原則 看護は科学である 看護は観察と判断の技術である 患者の安全と衛生を最優先する (Altの理念が反映) ●第2章 看護技術の標準化 ベッドメイキング 体位変換 清拭 食事介助 排泄介助 GHQは「手順の標準化」を強く求めた。 ●第3章 観察と記録 体温・脈拍・呼吸の測定 症状の変化の記録 医師への報告手順 ここに「看護は科学である」というAltの思想が最も強く現れる。 ●第4章 衛生と感染管理 手洗い 器具の消毒 病室の清潔保持 ナイチンゲールの衛生思想が反映。 ●第5章 患者との接し方 患者の尊厳 心理的ケア コミュニケーションの基本 GHQは「看護は人間理解である」という理念を強調 NLM(National Library of Medicine)公式サイト https://www.nlm.nih.gov NLM の蔵書検索システム(LocatorPlus)アクセス NLM の蔵書検索は LocatorPlus という公式データベース 検索窓の入力法 Principles of the Nursing Procedures GHQ Nursing Affairs Division 看護実習 SCAP Public Health and Welfare Section

GHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報に見る海外からのヒトの移動

 GHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報に見る海外からのヒトの移動 「 復員軍人および民間人の流入: 1945年秋以降、数百万規模の日本人が各地域から引き揚げることが見込まれ、政府側の受入能力の脆弱さが指摘された 」という点について、当時のGHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報には、次のように掘り下げて調査・整理していた。 1. 終戦直後の海外同胞の規模と「数百万規模の流入」の背景 1945年8月の敗戦時、旧日本軍の軍人・軍属、および一般の民間人(海外居留民)を含め、外地(中国、満洲、台湾、朝鮮半島、南太平洋、東南アジアなど)に取り残されていた日本人は、 総計で約660万〜680万人 (当時の日本国内人口の約1割に匹敵)にのぼっていた。 内訳の目安: 軍人・軍属が約330万人、民間人が約330万人と、ほぼ半数ずつが海外に存在していた。 1945年秋以降の現実: この数百万の群れが、一斉に日本本土へ帰還(復員および引き揚げ)を開始した。GHQのPHW週報(1945年10月〜1946年初頭の記録)においても、この巨大な人的流入が日本社会のインフラに与える衝撃が深刻な脅威として捉えられていた。 2. なぜ政府側の「受入能力が脆弱」と指摘されたのか GHQの初期週報や当時の行政記録では、日本政府(厚生省、内務省、復員関係部局など)の対応能力が以下のような理由から「著しく脆弱(あるいは機能不全)」であると厳しく批判した。 ① 行政組織の縦割り・混乱と情報不足 終戦直後の日本政府は、組織の再編期にあたり流動的であり、厚生省などの中央官庁すら「下1階層(地方自治体や現場)で何が起きているか」「何人の引揚者がどこに向かっているか」の正確な数値や実態を把握できていなかった。初期の週報でも、厚生省が提出するデータが極めて不完全であることが繰り返し指摘している。 ② 港湾インフラの破壊と収容・宿泊施設の欠如 海外からの引揚船が到着する指定港(博多、仙崎、舞鶴、浦賀、宇品など)において、受け入れるためのバラック、宿泊所、給水・衛生施設が圧倒的に不足していた。 例えば、朝鮮半島からの主要な帰還口となった博多や仙崎では、適切な収容施設がないまま帰還民が港湾周辺に野積み状態で滞留し、これが衛生悪化や伝染病(発疹チフスや天然痘)の温床なった。 ③ 鉄道・輸送網の麻痺と燃...

米国国立公文書館所蔵「GHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報(1945年10月〜11月期の「Nursing Affairs」ーー

 米国国立公文書館所蔵「GHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報(1945年10月〜11月期の「Nursing Affairs」ーー  GHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報(1945年10月〜11月期の「Nursing Affairs」セクション等の記述)には、占領直後に日本政府(厚生省)からGHQへ提出された、戦前〜戦中における看護要員の類型、学校数、従事者数の公式統計(1945年9月〜10月時点の報告データ)が残されている。 これらを基に、1945年8月15日以前の日本における看護婦養成のタイプ別実態を以下に紹介したい。。 1. 1945年8月15日以前の看護要員・養成施設の全体像(GHQ初期報告データ) GHQ初期週報の「Nursing Affairs(看護事情)」に記録されている日本政府の報告によると、終戦直後の日本には総計約16万〜18万人の看護・保健関連の有資格者が存在していた。その養成システムは、大きくいくつかのタイプに分かれていた。 ① 日本赤十字社(日赤)ルート:圧倒的な規模を誇る「従軍看護婦」養成 戦前の日本における看護婦養成の最大かつ最も組織的な基盤は、日本赤十字社でした。 従軍看護婦・救護員の実態: 日赤は全国の支部病院や養成所で体系的な看護教育を行っており、日中戦争から太平洋戦争にかけて、約3万4千人(一説には3万4千名以上とも記録される)もの膨大な数の看護婦が軍へ動員(従軍)され、陸海軍病院や特設病院、病院船などで過酷な医療救護に従事した。 週報の初期データでも、日赤病院およびその附属養成所(全国の主要都市に展開)は、一般病院とは一線を画す「米国の水準に最も近い組織的看護教育機関」としてGHQ側にも認識されていた。 ② 聖路加高等看護学校(現・聖路加国際大学)ルート:近代式看護の例外的な拠点 ガートルード・ホッド金ら米国人宣教師・看護指導者によって築かれた近代式看護教育(ナイチンゲール流)の牙城であり、大学レベルの高等教育とパブリック・ヘルス(公衆衛生看護)の統合を目指した数少ないエリート養成校であった。 ただし、戦時中は軍需や統制の色合いが強まり、施設自体も米軍(占領後)や日本軍に接収・転用されるなど曲折を経たが、 戦後レフォルメにおける「ゴールドスタンダード」 として機能することになる。 ③ 一般病...

GHQ初期週報にみる旧陸海軍病院の実態と移管・再編動向

  GHQ初期週報にみる旧陸海軍病院の実態と移管・再編動向 1. 終戦直時点における旧陸海軍病院の規模と傷病兵の状況(1945年8月〜9月) 旧陸軍病院の状況: 1945年8月15日時点で、帝国陸軍は日本国内および韓国(釜山など)において、 計277箇所(日本国内268箇所、韓国9箇所) の病院を運営していた 。 敗戦時、これらの陸軍病院および4箇所の病院では、約 78,000人 の負傷兵・病気療養中の復員軍人が治療を受けていた 。 しかし、戦災によってそのうち8箇所の陸軍病院が一部または全壊しており、多くの施設が旅館、学校、その他の民間建物へと急遽移転して診療を続けていた 。 旧海軍病院の状況: 帝国海軍は、総計 14,000床 のキャパシティを持つ海軍病院を運営していた 。 空襲により、3箇所・合計700床分の病院施設が70%〜80%焼失するなどの被害を受けた 。 医療人員の復員(デモビリゼーション): 1945年9月15日時点の日本政府の報告によると、陸軍からは 医師15,700人、歯科医師29人、薬剤師1,500人、看護婦15,000人 が復員した 。 同時期に海軍からも 医師3,279人、歯科医師253人、薬剤師213人、看護婦500人 が復員した 。 2. 運営主体の変更とGHQによる「非軍事化」指令(1945年11月) 旧陸海軍病院は、当初は軍の解体に伴い「復員庁(旧陸軍省・海軍省の流れをくむ傷兵保護院・厚生省の関連部局)」の管轄下に置かれましたが、GHQ/PHWは軍国主義的な色彩を排除するため、厳格な統制と一般民間への開放を命じた。 傷兵保護院から厚生省(民間医療)への移管: 1945年11月13日付のGHQ覚書(AG 334 PH)および同年11月17日付の覚書(AG 632 PH、SCAPIN-265相当)により、旧陸軍および海軍が保有していたすべての病院、サナトリウム、療養施設は、 内務省を経由して、民間人の医療・入院を担当する厚生省(厚生省の所管部局)へと移管する ことが命じられた 。 「軍人・家族専用」の禁止: GHQは、これらの旧軍病院の施設やベッドを、元軍人やその家族の治療だけに限定して優遇・利用することを明確に禁止 。一般の日本人市民(一般傷病者や結核患者、戦災者など)の医療ニーズに対しても広く開放し、統合・運用することが義務...