満州赤十字看護婦養成所
2007年 05月 11日 日本人従軍看護婦たちの死ー抗議の自殺 【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺 今にも泣き出しそうな曇り空のもと、埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の一角に立つ青葉地蔵尊で今月二十一日、約六十人の有志が集まり、自ら命を絶った従軍看護婦二十二人の墓前供養が行われた。 左手に赤十字の看護婦帽を掲げ持つ高さ一メートル余りの地蔵尊。この日は、四十九年前の昭和二十一年、旧ソ連軍の慰安婦となるのを拒み、集団自殺した彼女たちの命日にあたる。看護婦たちのうち、遺族が分からない三人の遺骨も、ここに納められている。 「ソ連の非道は、体験したものでないと分かりません。あのころは、無理でも向こうの言うことを聞き入れるしかなかった。敗戦の切なさですね」 地蔵尊の建立者で当時、婦長だった松岡喜身子さん(七七)=東京都八王子市=は、戒名が一人一人読み上げられると、うつむいて目頭を押さえた。 集団自殺の日からきょうまで、朝晩の仏前供養は欠かさない。「私は老いた今でも現役で看護婦をしていますが、きっと彼女たちが見守ってくれているのだと思います」 ナイチンゲールにあこがれて看護婦を志した喜身子さんは樺太・知取(しりとり)の生まれ。昭和十一年に樺太庁立豊原高等女学校を卒業、満州赤十字看護婦養成所を経て故郷で希望通り看護婦となった。十四年暮れ、陸軍軍医少尉だった四つ年上の前夫、堀正次さんと結婚する。 ところが、翌十五年春、従軍看護婦の召集令状が舞い込み、喜身子さんは香港へ。さらに上海、満州北部の虎林(こりん)、牡丹江(ぼたんこう)と任地を転々とする。出征から半年ほどたったころ、実家から、正次さんも応召、満州へ出発したと便りが届いた。 約二年間も離れ離れで連絡もつかなかった二人は十七年ごろ、虎林の野戦病院の廊下でばったりと行き合った。 「再会したとき、主人は顔が分からなかったほどやつれていました」。おしゃれだった正次さんは、真っ黒に汚れた軍服姿で、破れ靴を履いていた。 二人は官舎を与えられ、十八年五月には長男、静夫さん(五二)も生まれる。だが、傷病兵の治療、看護に追われながらも幸せな生活は、長くは続かなかった。 二十年八月八日、ソ連が日ソ中立...