千葉産婆学校
千葉産婆学校に関する記事の紹介
「 明治20年、高梨美津が創設。美津は安政5年、平郡佐久間村(現鋸南町)に生まれ、難産の経験から助産婦を志す。学校は、産科名医の飛田良吉を講師に迎え、無試験で開業免状が与えられたことから、入学希望者が殺到した。寄宿所には常に20名ほどの寄宿生がいたとされる。敷地面積およそ500坪、県庁舎近くの公的施設の集中する一帯にあったが、周囲の水田が当時ののどかな風景を想像させる。学校は、昭和18年に閉鎖。」
千葉県立博物館のHPよりの転載
学校
高梨美津は、安政5年(1858)安房郡佐久間村(現鋸南町)
の医師高梨安節の娘として生まれました。平 群村(現南房
美津が産婆を志したのは、自分自身も難産で子を失い非
常に苦しんだ経験から、産婆の必要性を強く感じ、高梨文策に嫁ぎましたが、夫が急逝したため実家
に戻ります。その後、上京して東京府病院で産婆学を学び
ました。
卒業後、産婆の開業免状を取得した美津は、明治18年
(1885)千葉市原産婆講習所を開設、同20年に産婆授業所、
その翌年には私立千葉産婆学校と改めました。これは、千
葉県下で最初の産婆学校といわれています。明治22年に
は校舎を千葉町長洲(現中央区長洲)に新築し、盛大な開
校式を行いました。
当時、校主である美津の産婆術は高く評価されており、
県立千葉病院から産科・婦人科の専門医を招いて学校での
教育内容も充実させていました。また、卒業者には無試験
で開業許可が与えられていたため、関東各地から入学希望
難産者を救いたい」と思ったためでした。いつの時代も出
産は命がけのものですが、「棺桶に片足を入れて産む」と
いうことわざがあるほど、明治期の出産は妊産婦死亡率が
非常に高かったのです。明治後期からは、近代的教育を受
けた「新産婆」が増えたことも一因となって、妊産婦の死
亡率は徐々に減っていきました。明治・大正期の千葉県に
おいて、美津は「新産婆」の養成に大きく貢献していたと
いえるでしょう。
大正11年(1922)に美津が亡くなった後、美津の養
女となっていた姪の高梨ちせが学校を受け継ぎ、昭和18
年(1943)に閉鎖を迎えるまで多くの産婆を養成しました。
*参考文献 『千葉県の歴史 通史編 近現代1』(千葉県、
2002 年)ほか
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<参考文献>
①医学書院『助産婦雑誌』第54巻第12号(2000)
「産婆の近代から助産婦の現代へ」大出春江
②小山田 信子・佐藤眞理
「明治期の宮城県産婆講習所の教育 明治期の宮城県産婆講習所の教育 -講師の資格背景からの検討」『東北大学 高度教養教育・学生支援機構 紀要第6号』2020
③ 小山田信子「官報に見る明治期の日本の産婆事情―多様な社会に向けた助産師役割の核を求めて」『教育情報学研究』 第20号(2021) Educational Informatics Research, 2021, No.20, 1-10
④柳原真知子 『産婆十三戒』に観る新産婆の教育観 」
⑤小山田信子「1890年に官立産婆学校が設置されるまでの 東京における産婆教育」
『日本助産学会誌』J. Jpn. Acad. Midwif., Vol. 30, No. 1, 99-109, 2016 資料

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