「大関和は『日本式看護』をどう作ったか?」ーー
<我々の議論の前提>
大関和は、既に存在していた「看護」という職業を説明したのではない。患者を前にして繰り返し発生する問題を一つずつ処理することで、「看護とは何をする仕事なのか」というロジックそのものを作っていった。
『看護婦派出心得』を一覧するだけでも、大関和は抽象的に「看護婦はこうあるべきだ」と説く啓蒙家ではないと気付くはずである。彼女が繰り返し考えているのは、
- 患者が眠れないとき、看護婦はどうするのか
- 患者とどういう距離で話すのか
- 何を話してよく、何を話してはいけないのか
- 医師の指示をどう実行するのか
- 注射の前に何を確認するのか
- 手術患者が怯えているとき、看護婦自身はどう振る舞うのか
- 夜勤・睡眠をどう管理するのか
- 病家で空いた時間をどう使うのか
- 看護婦の不品行が発生した場合、看護婦会はどうするのか
という「その場でどう判断し、どう行動するか」であった。
なお、本稿は、山本智子先生(福岡看護専門学校)のご示唆と看護教育観に関する対話の中から、アイディアを得て執筆に着手したことに深甚の感謝を申し述べたい。しかしながら、本稿の誤り・無理解などはすべて本論者の責任に帰す。
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大関和は「日本式看護」をどう作ったのか
――『看護婦派出心得』にみる現場のロジック
はじめに
大関和(1858―1932)について語るとき、私たちはしばしば、彼女を日本の近代看護の先駆者、あるいは看護教育の先駆者として位置づける。確かに、それは間違いではない。しかし、そのような人物評価から出発すると、ひとつ重要なものが見えなくなる。
「大関和は、いったいどこから「看護」を作ったのか。」
明治時代、看護 Nursingという概念さえない時、当然ながら、彼女は最初から完成された「看護」という職業理念を持っていたわけではない。患者は、教科書通りには動かない。熱が出る。眠れない。しゃっくりが止まらない。口腔内が汚れる。注射をしなければならない。手術を受ける患者は不安になる。家族との関係もある。医師から指示が出る。看護婦自身が疲れる。派遣先の家庭には家庭の事情がある。
その一つ一つに対して、「どうするのか」を決めなければならない。そして、同じような問題が何度も発生すれば、個人の経験はやがて「心得」になる。「心得」はさらに教育の教材となり、看護婦会の規則となり、試験制度や行政規則へと接続していく。ここに、本稿の分析視点である「現場のロジック」を導入することで、これまでと異なった論点を提出できると信じる。要するに、
現場の問題 → 観察 → 判断 → 処置 → 医師との連携 → 経験の言語化 → 教育 → 職業規範 → 制度化
という流れの開拓者として、大関和を位置付けたい。この視点に立つと、『看護婦派出心得』は単なる「看護婦の心得集」ではなくなる。それは、近代日本において看護婦が何を見て、何を危険と判断し、どこまで自分で処理し、どこから医師に委ね、患者や家族とどのように接し、そして自らをどのような職業人として形成していったのかを記録した、現場知の集積として読むことができる。
本稿では、この観点から大関和の仕事を読み直したい。
Ⅰ 大関和はどこから来たのか
大関和の出生地は安政5年(1858)、下野国那須郡黒羽(旧黒羽町・現大田原市)。
彼女のプロフィールは多くの紹介書にて、すでに周知の事実であるので、ここでは割愛する。<那須看護短大 大関和研究室 大関和 研究室 – 那須短期大学 那須看護専門学校 に詳細があるので、それに譲りたい。私見は別稿にて公表する>
1886年12月、28歳で桜井女学校看護婦養成所に入学するが、大関和が単に「看護婦養成所で学んだ女性」ではなかったことに、格別な関心を払いたい。桜井女学校ではイギリス式看護学の理論を学び、さらに東京帝国大学医科大学第一医院において実習を経験した。当時の日本には、近代的な看護教育そのものがまだ形成途上にあった。桜井女学校ではメアリー・T・P・トゥルーによる教育が行われ、東京帝国大学医科大学第一医院ではアグネス・ヴェッチの指導を受けた。1887年10月には東京帝国大学医科大学第一医院(以下、「東大病院」と略)が桜井女学校の生徒六名を受け入れ、看護婦講習科を開始し、1888年10月、大関和ら六名は桜井女学校の第一回卒業生であると同時に、東大病院における看護教育の第一期の卒業生となった。東大病院が発行した証明には、
「右者、医科大学第一医院ニ於テ看護法及其実習ヲ練習セリ依テ之を証す」
と記されている。この事実に注目したい。大関和は、「看護学」と「看護実習」の双方を経験した最初期の看護婦だったことである。そして卒業後、彼女は東大病院外科病棟の主任看護婦として勤務し、さらに二年間、看護婦教育にも従事した。ここで大関和が身につけたものは、単なる知識ではなかった。患者を目の前にしたとき、
「何を見るか」
「何をするか」
「何をしてはいけないか」
という、看護の実践的な判断であった。
Ⅱ 最初の問いは「看護とは何か」ではない
大関和著『看護婦派出心得』第一版は明治32年(1899)6月に刊行された。冒頭には、
「夫れ看護婦たらんとする者は、先つ普通の看護学を修むるを要す」
とある。さらに看護婦に求められるものとして、
「仁慈、敬愛、温和、忍耐、謙遜」
などの東洋的倫理を列挙している。やはり徳川時代の思想的影響下に育った大関和であっただけに、彼女の求める理想像は、イギリスのナイチンゲールと基本的人間像と異なった。それでは、
なぜ彼女は、看護婦に「忍耐」や「謙遜」を要求したのか。
なぜ「言語を慎み」「挙動、静粛」を求めたのか。
その答えは、理念の中ではなく、大関和にとって、実際の患者との関係の中にあると見抜いていた。
看護婦は患者のすぐそばにいる。
医師より長い時間、患者と接する。
しかも派出看護婦の場合、病院という閉じた空間ではなく、患者の家庭に入り込む。
そこで看護婦が不用意な発言をすれば、患者だけでなく家族との関係にも影響する。
だから「慎む」のである。つまり、
道徳が先にあったのではなく、現場の問題が道徳規範を必要とした
と読むことができる。
Ⅲ 「人命保護」は理念ではなく、職務の定義だった
大関和は看護婦について、「看病婦は人命保護の大任」であると喝破する。さらに、
「患者の安全を計り其順序を正うし患者のために絶へす注意して自己の本分を尽すを以て第一の義務」
とする。ここで注目したいのは、「患者を慰める」といった精神的役割だけではない。
第一に、患者の安全を計る。
第二に、順序を正うする。
第三に、絶えず注意する。
第四に、自己の本分を尽くす。
つまり看護とは、患者の身体を「世話する」仕事ではなく、患者の状態を継続的に観察し、安全を維持し、必要な行為を適切な順序で実行する仕事として定義されている。ここで強調したいのは、大関和による業務ロジックの存在である
Ⅳ 「多弁は一の不品行」――奇妙な規則の意味
大関和の文章の中でも、特に興味深いのが、
「看病婦の多弁は一の不品行」
という一文である。現代の感覚からしても、なぜ「多弁」が「不品行」なのかという疑問が生じる。単純な道徳論として読むなら、「看護婦はおしゃべりをするな」という話で終わってしまう。しかし、派出看護という現場から考えると意味が変わる。看護婦は患者の家庭に雇われる。患者や家族と非常に近い距離に置かれる。そこで看護婦が余計な話をすれば、
- 家庭内の秘密を漏らす
- 患者の病状について不用意な意見を述べる
- 医師の診療を批判する
- 家族間の問題に介入する
- 患者の不安を増幅する
などの危険が生じる。したがって「多弁」は、単なる性格上の欠点ではない。派出看護という職業そのものの信用を損なう危険行為なのである。
結論から言うと、 大関和が「多弁=不品行」と断じたのは、単なる道徳規範ではなく、派出看護という“制度的・技術的文脈”における職能統制の核心を示す一句である。 この一文は、看護婦の人格規範ではなく、派出看護という特殊な労働形態のリスク管理原理を端的に表現している。
だから大関和は「不品行」と呼んだが、現代風に言えば、「現場から生まれた職業倫理」である
Ⅴ 「近くにより静に正しく語る」――身体化された看護技術
さらに興味深い記述に接する。
「病人と語るに遠方又は背部に居てはいけません、近くにより静に正しく語らねばなりません」
これを「患者には親切に話しかけましょう」という精神論として読む必要はない。この看護行為は非常に具体的である。
どこに立つか。
どのくらい近づくか。
どのような声で話すか。
どのように言葉を発するか。
として、看護婦の身体の位置まで指導し、看護は知識だけではなく、身体の使い方そのものが職業技術なのだと教える。大関和が発見したのは、「現場のロジック」であった。彼女にとって、近代看護の形成とは、欧米式の看護学教科書を多数出版することではない。
患者の身体のそばで、看護婦自身の身体をどう動かすかという暗黙知が、言語化されて
いく過程でもあった。
Ⅵ 「面白い話」を研究する看護婦
一見すると矛盾する記述も見受けられる。大関和は「多弁」を戒める一方、
「常に面白き話を研究して置くべき」
とも記述する。はたして、この2文は矛盾なのだろうか。そうではないのは、自明の理である。大関和が求めているのは「おしゃべり」ではなく、患者の状態に応じて「会話できる能力」である。患者には、病気そのものだけでなく、不安、孤独、退屈、恐怖がある。したがって看護婦には、
「沈黙すべき時」と「話すべき時」
を判断する能力が必要だと力説する。看護婦とは単なる医療技術者ではなく、患者の心理状態を観察し、それに応じてコミュニケーションを選択する能力の持ち主であると教える。
観察 → 判断 → 行動
とは、まさに現場のロジックの反映である
Ⅶ 看護婦は医師ではない――境界線の発見
大関和の看護論でもっとも重要な一つが、医師との職務境界である。
彼女は、
「如何程熟練すると雖ども医師の範囲に入るる事はロをかたく禁ぜねばなりません」
とする。さらに、
「医師の命によりて職を務むるものでありますれば是に対するに礼義を正し、仮りにも批評がましき言葉などなす事なく常に尊敬の意を表さねばなりません」
という。これだけを見ると、近代看護は医師への従属物だと誤解されないだろう。最も重要な観点は、大関和が示した「医師の範囲に入るな」という規範は、看護婦を従属させるための道徳ではなく、
看護という新しい専門職が成立するための境界線の発見
であったことに気づかなくてはならない。制度史的に規定するならば、この境界線こそ「近代看護の誕生」を決定づけた最重要概念であった。
しかし、ここでも現場から読む必要がある。看護婦は患者のすぐそばにいる。だからこそ、医師の診療行為と看護婦の行為との境界を曖昧にすると、事故が起きがちである。そのため大関和は、
医師の仕事
看護婦の仕事
を厳格に区別した。これは看護婦を弱い立場に置くためだけの規則ではない。
むしろ、看護婦という新しい職業が成立するためには、
「看護婦は何をする職業なのか」
を定義づける、大関和の義務感が存在しなければならなかった。職業は「できること」の集合だけではない。「してはいけないこと」の境界を持った瞬間に職業になる。大関和の記述は、その境界形成の過程として読むことができる。
彼女の規範文書を見る限り、
医師の職域
看護婦の職域
両者の境界 を明確に線引きすることで、看護婦という新しい専門職を制度的に「生成」した。
これは単なる従属規範ではなく、換言すれば、 境界線を設定することで看護婦の専門性を守るための「職能防御」でもあった。
◆なぜ境界線が必要だったのか
看護婦は患者のすぐそばにいる。医師よりも長い時間、患者の身体・生活・家族関係に接する。この状況には、次のような危険が潜む。
① 医師の診療行為と看護婦の行為が混同される
看護婦が判断を口にすると、 家族はそれを「医師の判断」と誤解する。
→ 誤治療 → 医師との指示不一致 → 責任の所在が曖昧化 → 看護婦が責任を負わされる
大関和はこの構造を熟知していた。彼女が看護に従事した近代日本の医療制度は、未整備であっただけに、いち早く看護婦という新職能が直面した構造的危険を見抜く賢明さを持っていた。大関和は、この危険を三層に分解して理解していたと考えられる。
① 言語の危険:判断の混同
看護婦が患者のそばに長時間いるという事実は、「言語の一言が医療行為になる」という構造的リスクを生む。
看護婦の言葉が医師の判断と誤解される
家族がその言葉を治療方針として採用する
医師の指示と齟齬が生じる
責任の所在が不明確になる
最終的に看護婦が責任を負わされる
ここで重要なのは、看護婦が“医師の代弁者”に見えてしまう構造そのものが危険だという点である。大関和は「判断を口にすること」そのものが職能境界を侵す行為であると見抜いていた。
② 職能の危険:専門性の曖昧化
境界がなければ、看護婦は医師の代用品になる。これは単なる従属ではなく、看護婦という職業が制度的に消滅する危険を意味する。職業は「できること」ではなく、「してはならないこと」を持った瞬間に制度として成立する。大関和が境界線を引いたのは、看護婦を弱くするためではなく、看護婦を「看護婦として」強くするための制度的防御だった。それだけに、境界がなければ、看護婦は「医師の代用品」になってしまう。それでは職業として自立できない。
③ 制度の危険:責任体系の未整備
明治期の医療制度は、ナイナイ尽くしであった。
医療事故の責任体系
医師と看護婦の職域
医療行為の定義 が未整備だった。
この状況で境界線が曖昧だと、医療事故の責任が看護婦に集中するのは、目を見るより明らかである。だからこそ、大関和にとって、「境界線の不在=看護婦の身分危機」という制度的リスクが存在すると直感的に悟った。これは黒羽藩時代の武士階級の思考の枠組みに依拠していたかもしれないが、それを裏付ける根拠はない。
③ 医療事故の制度的:リスク
明治期の医療制度は未整備で、しかも責任体系も曖昧だった。境界線がなければ、
看護婦はすべての医療事故の責任を負わされる危険が高いと言わざるを得ない環境にあった。
近代日本の医療制度が未整備であった時代に、看護婦という新職能が直面した“構造的危険”です。
大関和は、この危険を三層に分解して理解していたと考えられる。 だからこそ、大関和の境界規範の設定は、看護婦を弱くするための従属規範ではなく、看護婦を“看護という独自の専門領域”へと確立するための職能防御である。境界線の設定こそが、看護婦という職業の成立条件だったとも言える。より具体的に説明したい。
① 行為規範(何をするか)
清潔
体位
食事
罨法 など、看護婦が行うべき具体的行為。
② 禁止規範(何をしてはならないか)
医師の範囲に入るな
多弁を慎む
批評をしない これが職業境界を形成する。
③ 身分規範(専門職としての信用)
礼義
品行
態度 看護婦の社会的信用を守るための規範。
この三層が揃ったとき、看護婦は「制度としての職業」になり、決して「従属」ではなく「専門職化」のプロセスを確立できると大関和は力説する。境界線の不可欠さは、看護婦は「看護」という独自の専門領域に直結するからである。
Ⅷ 注射の記述――ここに「現場のロジック」が凝縮している
『看護婦派出心得』に記された注射法は、さらに重要である。
医師の指示を受ける。
器具を準備する。
消毒する。
薬液を準備する。
注射部位を消毒する。
注射器を保持する。
空気を排出する。
皮下に刺入する。
薬液を注入する。
針を抜く。
穿刺部を圧迫する。
必要に応じて処置する。
この一連の手順には、現代の看護教育にも通じる構造がある。重要なのは、単に「注射の方法」が書いてあることではない。その背後には、
医師の指示
↓
看護婦による準備
↓
消毒
↓
実施
↓
実施後の処置
という業務の連鎖を見抜く大関和の看護観がある。しかも当然ながら、各段階にはヒューマンエラー失敗の可能性があると予見しておかなくてはならない。
器具が不潔なら感染する。
薬液を間違えれば事故になる。
空気が残れば危険である。
穿刺後の処置を誤れば問題が生じる。
つまりこの手順は、彼女の経験に裏打ちされた事故防止のロジックの抽出として理解したいし、
通常処理 → 異常 → 別の処理 → 医師へのエスカレーション
という構造がある。これは現代の医療安全システムのコンセプトの先駆けである。
Ⅸ 「しゃっくり」という小さな異常が教えるもの
さらに興味深いのは、しゃっくりへの対応である。
まず呼吸を止める方法を試す。
それでも治らなければ別の方法を試す。
許される場合には飲料を用いる。
それでも改善しなければ、
医師に報告して指示を待つ。
ここには明確な段階構造がある。
通常の処置
↓
効果の確認
↓
別の処置
↓
改善しない
↓
医師へ報告
↓
次の指示を待つ
なぜなら、看護婦の仕事は「決められた処置をすること」だけではないからである。処置の結果を見て、異常を認識し、自分の権限の限界を判断し、上位者へ情報を渡す。この瞬間、看護婦は単なる「作業者」ではなくなる。看護婦は情報を観察し、処理し、伝達する職業になっている。
Ⅹ 口腔衛生――「看護」は病気の治療だけではない
大関和は重病人であっても、
「毎朝歯磨を用ひてよく含嗽し」
食事や薬の前後にも含嗽することを勧めている。さらに口腔内を不潔にすると胃病や耳下腺・顎下腺の炎症を起こす恐れがあると説明する。看護婦が「患者を清潔にする」という道徳的行為をしているのではないことである。患者の身体状態を観察し、
清潔 → 合併症予防 → 回復
という因果関係を想定していることで、看護には、
治療そのものではないが、治療の成否を左右する身体管理
という独自の領域が形成されていると教える。「医師ではないが、単なる世話係でもない」という看護婦の専門領域の特徴が顕在化している。彼女の自負でもあったに違いない・
Ⅺ 手術室の看護婦――「恐怖する人間」から始まる専門職
大関和の手術患者に関する記述は、さらに異色な記述が連続する。
麻酔器具を準備する。
必要な器具を消毒する。
患者を呼ぶ。
患者の様子を見る。
そして、いざ手術が始まる。看護婦自身も緊張する。患者から見れば、自分を手術に送り込む女性は、時には「鬼のような人」と見えるかもしれない。この記述の面白さは、そこに「立派な看護婦」の姿だけが描かれていないことである。そこには、
恐怖する患者と、緊張する看護婦
がいる。看護という職業は、感情を持たない専門家集団ではなく、恐怖する人間を前にして、自分自身の恐怖を制御しながら仕事をする人間だという職業分類だという、大関和の主張は傾聴に値する。ここに、大関和の看護論のリアリティがあるからだ。
Ⅻ 看護婦自身も「現場」で壊れる
大関和自身の病歴も、この問題を考える上で重要である。彼女は若い頃から関節疾患などに苦しみ、のちには心臓弁膜症なども経験した。1907年、50歳のときにはリウマチを患い、約100日間寝たきりとなった。そして那須の温泉で湯治療養する。この経験の後に書かれたのが『実地看護法』である。ここには興味深い問題がある。看護婦は患者の生命を守る。しかし、看護婦自身も身体を持つ人間である。
眠る。
疲れる。
病気になる。
そこで大関和は、
「眠らんとすれば眠り、醒んとする時は必ず醒める様に慣さねばなりません」
と書き、さらに、
「高尚なる看護婦は僅の時間も徒に費すことなく、正しき書を読み其道の進歩を計り又精神を養ひます」
と説く。これは単なる精神論ではない。自分自身を管理できなければ、患者を継続的に管理できない。ここにも「現場のロジック」がある。
ⅩⅢ 看護婦会という「現場の組織」
大関和の活動を『看護婦派出心得』だけで終わらせると、その意味を十分に捉えられない。彼女は東京看護婦会の活動に深く関わり、1900年にはその責任を担うようになる。その後、1909年には小林静子とともに大関看護婦会を設立し、さらに夜学による実地看護法の教育にも取り組んだ。ここで注目すべきなのは、
経験 → 個人の心得
で終わらなかったことである。
経験は、教育へ移される。
教育は、看護婦会に蓄積される。
看護婦会の実践は、規則になる。
規則は、行政制度へ接続する。
つ まり大関和は、一人の看護婦として現場に立っただけではない。現場で得た知識を、他の看護婦が再現できる形に変換した。彼女の歴史的意味がここにある。
ⅩⅣ 『看護婦派出心得』の版を追うと何が見えるのか
『看護婦派出心得』は一冊の本ではない。1899年の第一版から、1902年、1906年、1911年、1917年、1919年へと版を重ねている。この事実自体が重要である。もし最初から完成された看護論が存在したのであれば、なぜ改訂が必要だったのか。答えはおそらく、
現場が変わったから
である。
患者が変わる。
医療技術が変わる。
看護婦の数が増える。
派出看護の組織が変わる。
行政規則が変わる。
看護婦試験が制度化される。
すると、現場で必要となる情報も変わる。実際、後の版には東京府令、看護婦規則施行細則、看護婦試験願など、行政制度との接続を示す資料が収録される。だからこそ非常に興味深い変化は、最初の『心得』が、
「看護婦はどうあるべきか」
という職業規範の色彩を濃くしたものであった。ところが版を重ねるにつれて、
「看護婦という職業を社会の中でどう運用するか」
という制度的情報が増えていく。例えば、
現場知が職業制度へ変換されていく過程
として読まなくてはならない箇所が増大する。
ⅩⅤ 「制度が看護を作った」という順序を逆転させる
ここで本稿の中心的な仮説を提示したいのは、近代日本の看護史の意記述が、しばしば、
外国の看護思想
→ 看護学校
→ 病院
→ 看護婦教育
→ 国家資格
→ 看護制度
という上から下への流れで説明されてきたことへの疑問符である。もちろん、その流れは存在すると認めるにしても、それだけでは説明できない。大関和の活動を見ると、別の流れが浮かび上がる。
患者を看る
↓
問題が起こる
↓
その問題に対処する
↓
繰り返し発生する問題を経験として蓄積する
↓
経験を言語化する
↓
『看護婦派出心得』にする
↓
教える
↓
看護婦会に蓄積する
↓
職業規範になる
↓
行政規則と接続する
この順序を重視すると「制度が看護を作った」という説明だけではなく、
看護の現場で繰り返された問題への対処が、やがて看護という職業の制度を作っていった
という逆方向の説明に逢着する。もちろん、これは現段階では作業仮説である。外国人宣教師、病院、医師、行政、国家制度など外部からの影響を過小評価してはいけない。しかし、だからといって「外国モデルが導入され、制度が整備され、看護婦がそれに従った」とだけ考えるのも不十分である。制度を実際に動かしたのは、患者の身体のそばにいた人間だった。
ⅩⅥ 大関和の「看護」は、どこまで専門職だったのか
ここで一つ、慎重にならなければならない。大関和の看護論には、現代から見れば医師への強い服従を求める側面がある。「医師の範囲に入るる事」を禁じ、医師への批評を戒める。したがって、これをそのまま現代的な「専門職の自律性」と呼ぶことはできない。この立場部に立てば、現在進行中のNPの障害となる。
しかし、だからといって大関和を単純に「医師の助手」と見るのも誤りである。なぜなら、彼女は看護婦に、
- 患者の安全を見る
- 患者の状態を観察する
- 身体を清潔にする
- 処置を準備する
- 医師の指示を正確に実施する
- 処置の結果を確認する
- 異常を発見する
- 必要なら医師に報告する
- 患者と適切に会話する
- 自らの生活を管理する
- 知識を更新する
という独自の仕事を与えているからである。つまり、医師の仕事ではないが、誰でもできる仕事でもない。この中間領域を具体的に埋めていった啓蒙活動こそ、大関和の重要な使命だった。
ⅩⅦ 「看護」を作ったのは、理念ではなく境界線だった
以上の考察によって、大関和の看護論には一つの特徴が浮かび上がるだろう。彼女は看護婦に、
何をするかだけでなく、
何をしないかを教えている。
患者にどう話すか。しかし、何を言ってはいけないか。
患者をどう処置するか。しかし、どこから医師に任せるか。
患者に尽くす。しかし、自分の身体も管理する。
病家に尽くす。しかし、家族の秘密や私生活に入り込みすぎない。
この「境界線」の積み重ねこそが、職業を作ると言って過言ではない。職業とは、特殊な技術を持っていることだけではない。
行動可能な範囲と、行動してはいけない範囲が社会的に共有されていること
でもある。その意味で大関和は、看護婦という職業の境界線を一本ずつ引いていった人物であったかもしれない。
ⅩⅧ 大関和の本当の仕事は「経験を再現可能にしたこと」
大関和を「近代看護の先駆者」と呼ぶことには異論がないし、それは妥当である。しかし、本稿ではさらに一歩進めたい。大関和の最大の功績は、看護について新しい理念を語ったことだけではない。
自分の経験を、他の看護婦が使える知識に変換したこと
にあるのではないだろうか。個人の経験は、そのままでは個人の経験にすぎない。しかし、
「こういう場合にはこうする」
と書けば、他人が学べる。さらに、
「なぜそうするのか」
まで書けば、判断基準になる。それを教育すれば、次の看護婦が同じ場面で使える。
看護婦会に蓄積すれば、組織の知識になる。行政規則と結びつけば、社会制度になる。
ここで初めて、
現場知が制度知へ変換される。
この変換こそ、大関和研究で最も注目すべき問題ではないだろうか。
ⅩⅨ 「現場のロジック」を可視化する
以上を整理すると、大関和の『看護婦派出心得』は次のように読み替えることができる。
| 現場で起きる問題 | 看護婦がすること | 判断のポイント | 限界・境界 | 最終的な形 |
|---|---|---|---|---|
| 患者の安全 | 継続的に注意する | 異常の有無 | 自己の本分 | 職務規範 |
| 患者との会話 | 距離・声・内容を調整 | 患者の状態 | 多弁を避ける | 接遇規範 |
| 注射 | 器具準備・消毒・実施 | 手順と安全 | 医師の指示 | 技術規範 |
| しゃっくり | 段階的に処置 | 効果を確認 | 改善しなければ医師へ | 異常対応 |
| 口腔衛生 | 清潔保持 | 合併症予防 | 治療とは区別 | 看護領域 |
| 手術 | 器具準備・麻酔補助 | 患者の状態 | 医師の領域を侵さない | 手術看護 |
| 病家への派遣 | 生活・患者・家族に対応 | 信用と職業倫理 | 私生活への介入を避ける | 職業規範 |
| 看護婦自身の疲労 | 睡眠・学習・自己管理 | 継続勤務の能力 | 自己の身体 | 自己管理規範 |
| 不品行 | 職業倫理を守る | 信用維持 | 場合によって廃業 | 職業統制 |
この表から見えてくるのは、「看護」というものが単一の理念から構成されていないということである。
患者との会話。
口腔衛生。
注射。
手術。
異常への対応。
医師への報告。
家庭との関係。
看護婦自身の生活。
それぞれ異なる現場の問題から、個別のルールが生まれている。それらが積み重なって初めて「看護」という職業が形を持つ。
ⅩⅩ 大関和の問いは「看護とは何か」ではなかった
大関和が生涯をかけて答えようとした問いは、かならずしも「看護とは何か」という抽象的な問いではなかったと考えるに至っている。むしろ、
「患者の前で、看護婦はどうすればよいのか」
だったのではなかっただろうか。
患者が苦しんでいる。⇒ どうするか。
患者が眠れない。 ⇒ どうするか。
患者が不安になっている。⇒どうするか。
しゃっくりが止まらない。⇒どうするか。
注射をしなければならない。⇒どうするか。
手術が始まる。⇒どうするか。
医師の指示がある。⇒どうするか。
医師の指示だけでは判断できないことが起こる。⇒どうするか。
患者の家族がいる。⇒どうするか。
看護婦自身が疲れている。⇒どうするか。
この「どうするか」は「看護とは何か」を論じているのではなく、
看護婦が次に何をしなければならないか
である。この蓄積が「看護」だという彼女の信念が形成されたに違いない。大関和の仕事の核心は、ここにある。
結論 大関和は「看護婦」を作ったのではない。「看護」を作った
大関和を日本の近代看護史における先駆者とも、「最初期の看護婦」「看護教育者」「キリスト教社会活動家」という人物像のレッテルを張ることは容易である。しかし彼女が生涯をかけて追及した「問い」に無関心であれば、彼女の仕事の核心を見失う。大関和が行ったことは、もっと根本的だった。
患者がいる
↓看護婦が現場に派遣される
↓
予想外の問題が次々に発生する
↓
看護婦には一定の判断・技術・倫理が必要になる
↓
その経験を規則・教育・教科書にする
↓
それが看護婦会という組織に蓄積される
↓
やがて行政制度につながる
ここには、
現場 → 経験 → 判断 → ルール → 教育 → 組織 → 制度
という一つの流れがある。これこそが、大関和の仕事を読み解くための「現場のロジック」ではないだろうか。したがって、本稿では一つの作業仮説を提出したい。
大関和は、既に存在していた「看護」という職業を日本に紹介したのではない。
患者を前にして繰り返し発生する具体的な問題を処理し、その経験を言語化し、教育し、組織化することによって、「看護」という職業のロジックそのものを作っていった。
『看護婦派出心得』は、その過程を読み取ることのできる重要な史料である。そこに書かれているのは、単なる「看護婦の心得」ではない。
患者の安全をどう守るか。
異常をどう発見するか。
医師とどう分業するか。
患者とどう接するか。
どこまで自分で判断するか。
どこから他者に委ねるか。
看護婦自身をどう管理するか。
そして、これらを次の看護婦へどう伝えるか。
言い換えれば、『看護婦派出心得』には、近代日本の看護職が自らの仕事を定義していった過程が刻まれている。
だからこそ、大関和を理解するために最も重要な場所は、彼女が「看護とはこうあるべきだ」と語った場所だけではばく、「なぜ、この場面で、この指示を書いたのか」という一つ一つの記述の背後にある。
「なぜ多弁を禁じたのか。」
「なぜ患者との距離まで指定したのか。」
「なぜ口腔衛生をこれほど細かく書いたのか。」
「なぜ注射の手順をここまで分解したのか。」
「なぜしゃっくりのような些細な異常を記録したのか。」
「なぜ医師との境界を繰り返し強調したのか。」
そして、
「なぜ、これを『心得』として書き残す必要があったのか。」
この「なぜ」を一つずつ追っていくと、大関和という一人の女性の思想史を超えて、日本において看護という新しい専門職が、患者の身体のそばからどのように立ち上がったのかが見えてくる。大関和が作ったのは、看護婦の「理想像」だけではない。看護婦が現場で判断するためのロジックだった。そして、そのロジックが教育され、共有され、組織化され、制度化されることによって、「日本式看護」は一つの社会的職業になっていったと強調したい。
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