千五の岡山陸軍病院(未完成)
. 占領軍の進駐と部隊の変遷
アメリカ軍の進駐(1945年10月〜):
1945年10月12日にアメリカ軍先遣隊が入ったのを皮切りに、翌月にはコート代将を司令官とする約5,000人が岡山に進駐しました
。軍政部などの行政調整はアメリカ軍が担当しました 。
英連邦軍の進駐(1946年6月〜1948年12月):
オーストラリア軍を主力とし、イギリス軍やインド軍(グルカ兵含む)で構成される英連邦軍が岡山市、玉野市、倉敷市に配備された、イギリス連邦軍(以下、英連邦軍。British Commonwealth Occupation Forceという名称は1945年12月に決定)も日本に進駐している。英連邦軍の日本進駐は、1946年5月にほぼ完了し、同年12月31日時点の兵力は、37,021名。内訳は、イギリス9,806名(内、イギリス経費をうけたインド人編成部隊2,533名)、インド10,853名、オーストラリア11,918名、ニュージーランド4,444名。つまり、全体の約4割をインド人が占めていた。
アメリカ軍への再移管(1948年12月〜):
インド独立に伴うインド軍の撤退や英連邦
軍の撤退を経て、再びアメリカ軍が占領業務全般を担うようになりました
。
ご提示いただいた論文『占領期岡山における接収住宅と保養所に関する研究』および関連資料を基に、敗戦直後(GHQ進駐前)からGHQ進駐期にかけての岡山の状況、特に「陸軍病院」およびそれに伴う医療・衛生施設の変遷と接収について整理します。
1. 敗戦直後(GHQ進駐前)の岡山における医療体制と初期の動き
医療・衛生をめぐる危機と県側の懸念
1945年8月の敗戦後、岡山県では進駐してくる占領軍を迎えるための準備が進められました。同年9月、岡山県庁の厚生課長であった守屋茂らによって「洋式建築物調査表」が作成されましたが、このリストには「水洗便所の有無」などの衛生面・設備面に関する項目が詳細に盛り込まれていました
。これは、進駐してくる米軍等の衛生管理基準に対応するためでした 。
初期の接収対象としての学校・病院
占領軍が本格的に進駐する前後の段階で、内山下国民学校や日赤岡山支部病院などが一時的に接収・使用されるなど、都市機能や医療・教育施設の一部が接収の対象となりました(のちに駐屯状況の変化に伴い再編されます)
。
2. GHQ進駐後における「陸軍病院」および関連施設の接収・転用
岡山における旧日本軍の施設や医療関連施設は、進駐してきたアメリカ軍や英連邦軍(BCOF:オーストラリア軍・イギリス軍・インド軍など)によって次々と接収・転用されていきました。
「元大刀洗航空隊」等の軍病院としての転用
1947年3月時点の駐屯・接収状況を記した資料(『昭和二十二年四月内務部長事務引継書』)によると、岡山市内において「元大刀洗航空隊」の敷地・施設が軍病院(占領軍側の病院)として接収・利用されていました
。
岡山医科大学および付属病院の接収
岡山県が事前に作成した洋式建築物調査の段階(表1)でも、「岡山医科大学校及び同所属病院」(敷地約3,000坪、建物5〜3階建、室数180、水洗トイレ有)が主要な大型施設としてリストアップされていましたが
、実際の占領期においても、こうした医学教育・医療拠点や大学関連施設は占領軍の管理・接収の網に組み込まれていきました。
3. 占領政策による医療・看護制度の大きな転換(モデルスクール制度)
GHQによる占領統治が進む中で、岡山の医療現場や教育体制は、単なる施設の接収にとどまらず、根本的な制度改革の舞台となりました。
国立岡山病院附属高等看護学院(モデルスクール)の開設
GHQの公衆衛生局(PHW)のオルト看護課長らは、日本の従来の看護水準の低さを問題視し、近代的な看護制度(保健婦助産婦看護婦法につながる改革)と教育の向上を強く求めました
。 その一環として、全国における先進的な看護教育の「モデルスクール」が東京に2ヵ所、そして地方では岡山(国立岡山病院附属)に1ヵ所開設されることになりました
。 GHQから派遣されたカールソン女史やランディーン女史らの指導のもと、聖路加国際病院から迎えられた指導者らとともに、中国四国地方における看護教育・医療体制近代化の中心拠点として実績を挙げることになりました
。
まとめ
進駐前: 敗戦直後の岡山県側は、GHQから強い要求のあった占領軍衛生基準(水洗トイレや洋式設備など)を意識しながら急ぎ施設の調査・リストアップを行いましたが
、住宅や医療インフラの不足、戦災による焼失という重い課題を抱えていた。 進駐後: アメリカ軍やオーストラリア軍、英連邦軍などの進駐後、旧軍施設が占領軍病院として接収・利用されたほか
、大学病院などの医療インフラも占領業務の一環としてGHQ管理下に置かれた。さらにGHQの占領政策(公衆衛生環境改革、さらには医療スタッフ改革など)によって、岡山が近代医療・看護教育の地方拠点(モデルスクール設置)としての役割を担うという大きな転換点を迎えました 。岡山が選定された最大の理由は、旧陸海軍病院の再利用稼働率を考慮したと思われる、東京新宿にある旧東京第一陸軍病院(戸山)は日本最大級の病院であったが、GHQの指示によって、日本占領後の進駐軍病院への転用計画を持っていたために、空襲被害からも逃れた。第2番目の旧大阪陸軍病院ほぼ全焼(大阪大空襲、1945年3月13–14日)>、や第3番目の旧名古屋陸軍病院は空襲で壊滅的被害を受け(名古屋大空襲、1945年5月14日)、第4番目の旧熊本陸軍病院は半壊した(熊本空襲、1945年7月1日)。したがって、東京以外で残った大規模旧陸海軍病院で焼け残ったのは、旧岡山陸軍病院「約1400床か、推定値)もその一つであった。 昭和20年12月 陸軍病院より引き継いで国立岡山病院(岡山市伊福)として発足 昭和21年 6月 英連邦軍に接収(国立岡山療養所の一部にて続行) 昭和22年12月 英連邦軍の接収解除 昭和23年 5月 附属模範高等看護学院設置
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