はじめに――占領期東アジア看護改革を比較史的に捉えるために

 

はじめに――占領期東アジア看護改革を比較史的に捉えるために

第二次世界大戦後の日本における看護制度の改革については、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)公衆衛生福祉局(Public Health and Welfare Section)の活動、とりわけ看護課を中心として進められた看護教育・看護行政の改革が重要な研究対象とされてきた。Grace Elizabeth AltをはじめとするGHQ看護関係者の活動についても史料の発掘と研究が進められ、占領期の看護改革が戦後日本の看護制度形成に与えた影響が明らかにされつつある。

しかし、ここで改めて問い直す必要があるのではないだろうか。戦後日本の看護改革は、果たして「日本」という一国の枠内だけで理解することのできる歴史的事象なのであろうか。1945年、日本が連合国軍の占領下に置かれたのとほぼ同じ時期、朝鮮半島もまた日本の植民地支配から解放され、北緯38度線以南は米軍の占領下に置かれた。そこでは United States Army Military Government in Korea(USAMGIK)による軍政が実施され、その公衆衛生福祉行政を担当した Bureau of Public Health and Welfare のもとで、医療・衛生・福祉制度の再編が進められていた。

ところが、日本の占領期看護史を考える場合、この米軍政下朝鮮における看護政策は、少なくとも日本側の研究視野には十分に組み込まれてこなかったように思われる。

 筆者が収集した米軍政庁 Bureau of Public Health and Welfare の Weekly Report は、この問題を再検討するための重要な一次史料である。この史料群には、予防医学、医療、衛生、看護、歯科、獣医、医薬品供給、人口動態、社会福祉など、米軍政下における公衆衛生福祉行政の実施状況が週単位で記録されている。そこには政策決定だけではなく、施設の移転、人員配置、研修、会議、専門職団体の形成など、制度が実際に形成されていく過程を具体的に確認できる記録が含まれている。 GHQ-weekly Bulietin 1946年3月31日―…

なかでも注目されるのが、Nursing Affairs Section である。

1946年3月23日を終期とする Weekly Report は、Graduate Nurses’ Institute の施設を Bureau of Health and Welfare Building から Red Cross Hospital へ移転することが決定されたと報告している。新しい施設は約60名の学生を収容でき、移転は翌週中に実施される予定であった。これは、米軍政成立から半年程度の時期に、すでに看護教育施設の再編が具体的に進められていたことを示す記録である。 GHQ-weekly Bulietin 1946年3月31日―…

さらに重要なのは、その直後に記された次の一文である。

“The first meeting to organize a Korean Nurses’ Association was held at Severance Hospital on 22 March.”

すなわち、1946年3月22日、Severance Hospitalにおいて、Korean Nurses’ Associationを組織するための最初の会合が開催されていたのである。しかも報告書は、それに続けて、米国人看護師は援助を求められた場合を除き参加しない旨を記している。 GHQ-weekly Bulietin 1946年3月31日―…

この短い記述は、占領期朝鮮の看護史を考えるうえで看過できない意味をもっている。

ここに記録されているのは、米軍政当局による上からの行政制度改革だけではない。韓国人看護師自身による職能団体の組織化と、それに対する米国人看護関係者の関与のあり方までが、軍政当局の週報のなかに記録されているからである。

さらに同じ Nursing Affairs Section には、ラジオおよび新聞による告知を経て、Nursing Affairs Section の韓国人スタッフが licensed midwives の面接を実施していたことが記録されている。その目的の一つは、ニューヨークの Lobenstine Clinic で研修を受ける候補者二名を選抜することであり、もう一つは Seoul City Hospital で実施される最初の midwifery refresher course の受講者を選抜することであった。 GHQ-weekly Bulietin 1946年3月31日―…

ここから浮かび上がってくるのは、単独の政策ではない。

  看護教育施設の再編、看護職能団体の形成、助産婦の現職者再教育、そして米国への研  

 修派遣という複数の政策が、1946年3月という同一時期に並行して進められていたのであ

 る。

この事実を日本における占領期看護改革と並べて考えると、新たな研究課題が生まれる。

 日本ではGHQ看護課長Grace Elizabeth Altを中心として看護改革が進められたことが知られている。しかし、Altの活動もまた、日本国内だけで完結していたわけではなかった。大石杉乃の研究によれば、Altの看護改革にはRockefeller FoundationのMary Elizabeth Tennantとの関係があり、Tennantは米国における看護関係の情報をAltに提供していた。さらにAltからTennantに対しても、日本の看護改革の実施状況や問題点について詳細な報告が送られていたという。 Alt看護課長の政策 Alt看護課長の政策

 またTennantは、情報提供にとどまらず、Altから依頼を受けて物品や映画フィルムなどの提供に関与し、米国留学経験者への援助も依頼されていた。大石は、両者の間にはGHQ看護課長とRockefeller Foundationの看護部門責任者という公的関係だけではなく、個人的関係も存在したと指摘している。 Alt看護課長の政策

この事実は、日本の看護改革そのものが、米国と日本との間を結ぶ人的・情報的ネットワークのなかで進行していた可能性を示している。我々の見通しに誤りがなければ、研究対象を日本から朝鮮半島へと広げる必要がある。すなわち問われるべきなのは、日本で何が行われたか、韓国で何が行われたかを別々に記述することではなく、同じ占領期の東アジアにおいて、米国の公衆衛生・看護政策がそれぞれの地域でどのように導入され、どのような制度へと具体化されていったのかという問題である。

 もちろん、現段階で日本と米軍政下朝鮮の看護改革を同一の政策として理解することはできない。今回検討したWeekly Reportだけから、両者の間に直接的な政策的連関が存在したと結論することもできない。日本と朝鮮では、占領統治の制度的条件も、それ以前の看護制度も、改革を担った主体も異なっていたはずであり、それらの相違を無視した比較は避けなければならない。しかし、少なくとも今回の一次史料は、1946年3月の米軍政下朝鮮において、看護教育、職能団体形成、現職者再教育、助産婦教育、海外研修という複数の改革が同時に動いていたことを明確に示している。

ここから一つの仮説を提示することができる。

 戦後日本と米軍政下朝鮮における看護改革は、それぞれ独立した一国史的現象としてのみ捉えるのではなく、第二次世界大戦後の東アジアにおいて米国の看護思想・教育制度・専門職モデルが、それぞれ異なる政治的・社会的条件のもとで移植され、受容され、再編されていった過程として比較史的に検討できるのではないか、という仮説である。

この仮説を検証するため、本研究では米軍政庁 Bureau of Public Health and Welfare の Weekly Report を時系列的に分析するとともに、日本側のGHQ/SCAP Public Health and Welfare Recordsと比較する。その際、看護関係史料を、①看護行政・制度、②看護教育・カリキュラム、③看護職能団体、④現職者再教育、⑤保健婦・助産婦、⑥看護要員・配置統計、⑦モデル校・モデル病院、⑧海外研修・人的交流、⑨米国側専門家・ネットワーク、という九つの分析項目に分類し、その成立時期、政策内容、実施主体および相互関係を検討する。

これによって明らかにしたいのは、単なる日韓両国の看護制度の「類似」ではない。

誰が、いつ、どのような問題を発見し、どのような米国側の知識・制度・人的ネットワークを利用し、それを日本および朝鮮の既存制度にどのように適用し、あるいは修正したのか。

その具体的な政策形成過程を一次史料から復元することによって、従来主として一国史として論じられてきた占領期日本の看護改革を、戦後東アジアにおける看護制度再編という、より広い歴史的文脈のなかに位置づけ直すことが、本研究の目的である。


<<付記:本論の着想は、山本智子先生(福岡看護学校)との対話の一言からに由来する。特記して謝意を申し上げたい。>>

<

コメント

このブログの人気の投稿

明治19年開設の桜井女学校看護婦養成所第1回卒業生 大関和氏の開院式祝辞

韓国の看護大学数ーー202校