なぜ、看護専門学校は専修学校か?
なぜ、看護学校は専修学校なのか
――1976年の制度選択を「現場のロジック」から読み直す
長い間、私は一つの素朴な疑問を持っていた。
なぜ、看護専門学校は「専修学校」なのだろうか。
看護師という国家資格を取得するための教育を行い、病院や診療所という医療現場に専門職を送り出している。それにもかかわらず、制度上は、調理、製菓、理容、美容、服飾、ホテル・観光、ビジネスなど、多様な職業教育を担う専門学校と同じ「専修学校」というカテゴリーに置かれている。
もちろん、これは専修学校を低く評価するという意味ではない。現在の専修学校は、日本の職業教育を担う重要な教育機関である。
しかし、看護教育の歴史を振り返ると、一つの疑問が残る。
なぜ、看護教育は最初から大学や短期大学などの学校教育法第1条に規定された学校、いわゆる「一条校」として制度化されなかったのか。
そして、さらに重要な問いがある。
1976年に専修学校制度が成立したとき、なぜ看護教育は専修学校の側に位置づけられたのか。
この問題を考えるには、1976年の制度だけを見るのでは不十分である。
むしろ、1976年に至るまでに日本の看護教育がどのような姿になっていたのかを確認する必要がある。
1 1976年、日本にはすでに全国的な看護教育網が存在していた
ここで重要な数字がある。
厚生省の昭和52年版『厚生白書』によれば、昭和51年4月現在、厚生省が把握していた看護職員養成施設は、次のような規模に達していた。
| 課程 | 養成所数 | 1学年定員 |
|---|---|---|
| 看護婦・3年課程 | 340か所 | 14,673人 |
| 看護婦・2年課程 | 410か所 | 15,611人 |
| 准看護婦 | 748か所 | 33,653人 |
| 保健婦 | 57か所 | 1,950人 |
| 助産婦 | 59か所 | 1,420人 |
ここで、用語には注意しなければならない。これは文部省の学校統計ではないからだ。厚生省が「看護職員養成所」として把握していた数である。したがって、ここでは「看護学校が1,498校存在した」と単純に書くべきではない。正確を期して表現するならば、看護職員養成所が1498校存在し、看護師国家資格認定校であったというべきかもしれない。
ここで、見逃してはならないのは、1976年の日本では、看護教育は決して「これから学校を作っていく段階」ではなかった。すでに全国に巨大な教育ネットワークが形成されていたからである。
2 ここで「看護学校」と「養成所」を区別する必要がある
この問題を考えるとき、私は今まで以上に、文部省と厚生省の用語を区別する必要があると考える。同じ看護教育を扱っていても、両省の立場は違った。
厚生省にとって重要なのは、保健婦助産婦看護婦法(昭和23年制定、いわゆる「保助看法」)および「保健婦助産婦看護婦養成所指定規則」によって、厚生省(現・厚生労働省)の管轄下で
「看護婦・准看護婦という医療職を、どこで、どのように養成するか」
であった。
一方、文部省にとっては、学校教育法で
「それを学校教育制度の中で、どのような学校として位置づけるか」
が問題となる。
したがって、
文部省=「学校教育」
厚生省=「医療職養成」
と単純に切り分けることはできないが、少なくとも両省が同じ施設を異なる法律の、異なる制度的観点から見ていたことには注意が必要である。この二重性こそ、1976年の問題を理解する鍵ではないか。
3 1976年、専修学校制度が登場する
1976年1月、専修学校制度が発足した。それまで学校教育法第1条に規定される「一条校」と、それ以外の各種学校という大きな区分が存在していたから、1976年のドラマツルギーが始まる。
いまさらの再現劇をするつもりはないが、1976年に専修学校制度(専門学校)ができたとき、国(文部省と厚生省)は次のような判断を下した。
「厚生省の基準で全国に乱立・展開しているこれら膨大な『看護婦養成所』を、法的に野
放図なままでも、またいきなりハードルの高い『大学(一条校)』にすることも無理だ。
しかし、一定の教育水準を満たす専門的な職業教育機関として、文部省の制度枠内に
取り込もう」
この決定によって、、「厚生省の指定する看護婦養成所(厚生省の指定する保助看法に基づく指定施設)」という法的ステータスが「文部省の認可する専修学校(専門課程=専門学校)」の衣をまとった瞬間であった。表面上、二重のステータスが一つに整理されたかに見えるだろう。
(中身):これまで通り厚生省の「保健婦助産婦看護婦養成所指定規則」に従い、国家試験の受験資格につながるカリキュラムと実習をこなす(医療の論理)。
(器):文部省の「専修学校(専門課程)」としての法的認可を受け、生徒が「学生」としての身分や通学定期、各種の学校教育上の優遇を受けられるようになる(教育の論理)。
専修学校制度は、その間に新しい制度的枠組みを設けるものであった。
現在では専修学校は全国約3,000校に達している。しかし、制度発足時に重要だったのは、専修学校という名称そのものではない。問題は、
すでに社会の中に大量に存在していた職業教育機関を、どのような学校制度の中に位置
づけるか
ということであった。
そして、その中に看護教育が入ってきた。
4 では、なぜ看護教育を一条校にしなかったのか
ここで、『看護教育』17巻5号(1976年5月)の「専修学校制度の成立と今後の課題」に注目したい。この対談は、専修学校制度が発足した直後に、制度成立の経緯と今後の課題について専修学校制度に直接に関与した関係者に尋ねたものである。その座談会で示される文部省側の説明は、非常に興味深い。
看護教育を一条校として位置づける場合、看護教育担当教員の資格が問題になる。
ところが当時、大学・短期大学などの一条校として看護教育を展開するために必要な法的条件、厳格な教員資格(大学卒や研究歴など)や校地・校舎基準、さらには教員研究室の数、図書館の冊数、グランド確保などをクリアしなければならず、全国の病院敷地内や医師会立で小回りを利かせて展開することが不可能だった。何よりも、速成に有資格者の看護教員を十分に確保することは困難だった。つまり、問題は看護学校が少なかったことではない。
むしろ逆である。
1976年には、看護婦3年課程・2年課程だけで750か所あった。
問題は、
この巨大な看護教育網を、一条校として必要な制度的・人的条件を備えた学校へ、一挙に転換できるか
という難問だった。その答えは、当時の現実からすれば容易ではなかった。
5 ここに1976年の「制度と現場」のずれがある
制度の論理だけを見れば、
「看護教育は専門教育なのだから、高等教育機関にすればよい」
ということになる。しかも学校現場には、すでに750か所もの看護婦養成所が存在していた。
そこには学生がいる。⇒供給
教員がいる。
実習病院がある。
地域医療機関がある。
卒業生がいる。
そして、何よりも、看護師を必要とする医療現場がある。⇒需要
これらを一挙に大学・短大型の学校制度に載せ替えることはできない。つまり、
「看護教育を高度化したい」という理念と、「現在存在している看護教育をどう維持する
か」という現実との間にギャップがあった。
専修学校制度は、そのギャップを埋める制度として見ることができるのではないか。
6 しかし、ここで「准看護婦」の存在が登場する
ところが、話はさらに複雑になる。
1976年の看護教育を考える場合、看護婦養成だけを見てはいけない。
同じ昭和51年4月、厚生省が把握していた准看護婦養成所は748か所に達していた。1学年定員は33,653人である。これは看護婦3年課程340か所、2年課程410か所とほぼ同じ規模の教育ネットワークである。つまり、1976年の日本の看護教育制度には、
「看護婦を高度に養成する制度」
だけではなく、
「准看護婦を大量に養成する制度」
が組み込まれていた。この事実を抜きにして、看護教育の大学化を論じることはできない。
7 なぜ准看護婦が必要だったのか
ここから先は、制度史だけではなく、日本の医療提供体制そのものを見なければならない。
1976年当時、日本の医療は大病院だけで成り立っていたわけではない。全国各地には開業医が存在し、地域住民は診療所で医療を受けていた。現在の医療法上では、病床20床以上が病院、無床または19床以下が診療所とされている。1976年当時の法令上の用語についてはさらに確認する必要があるが、少なくとも日本の医療提供体制において、地域の小規模な医療施設が大きな役割を果たしていたことは確かである。そこでは、大学病院や大病院とは異なる規模と経営条件の下で、看護労働力が必要とされていた。ここに准看護婦制度の存在理由を考える必要がある。
8 ここで、看護教育を「労働市場」として見る必要が出てくる
看護教育史は、ともすると、
教育水準を高める
↓
看護師を専門職化する
↓
大学教育へ移行する
という一本の進歩史として書かれる。
しかし、1976年の現場を見ると、それだけでは説明できない。
日本には、
- 大病院
- 中小病院
- 診療所
- 開業医
- 地域医療
という異なる医療現場が存在していた。それぞれが必要とする看護労働力も同じではない。そして、その労働市場の一部を准看護婦が担っていた。ここで、専修学校制度と准看護婦制度が接近してくる。
専修学校制度は、看護教育を一律に大学化する制度ではなかった。
むしろ、異なるレベルの医療人材を、異なる教育課程によって大量に供給する制度体系と接続していたのである。
9 医師会の「現場の声」
この問題について、私が特に注目したいのが、一つのエピソードである。ある県で看護大学を設立しようとした際、県医師会の設立同意書に会長の印鑑をもらうことができなかった。そして、その県医師会長自身が、地域の開業医が必要としている看護労働力について、准看護婦制度との関係を明言した。これは重要な証言である。なぜなら、看護教育を大学化することについて、
教育側だけが判断していたわけではなかった
ことを示すからである。看護大学を設立することは、単に新しい大学を一校増設する問題ではない。地域の医療機関にどのような看護職を供給するのかという問題でもある。もし医師会側が、地域の診療所・開業医の医療提供を支える看護労働力について具体的な懸念を持っていたとすれば、それは看護教育制度の再編を考える上で無視できない。見方を変えれば、大学看護学部で看護の高等人材を育成したとしても、地元の医院やクリニックに就職もするはずもない以上、県医師会長の言はけだし名言である。
ただし、この点は慎重に扱わなければならない。
一人の医師会長の発言から、全国の医師会の意思を一般化することはできない。
しかし、その発言を一つの「現場の証言」として提示し、当時の准看護婦養成所数、診療所数、医療機関の構成などと照合すれば、非常に重要な史料になる。
10 ここで「専修学校でなければならなかった理由」が見えてくる
以上をまとめると、1976年の看護教育には少なくとも四つの異なる論理が存在していたのではないか。
第一の論理――文部省:学校制度としてどう位置づけるか。
一条校にするなら、教員資格をはじめとする学校教育制度上の条件を満たさなければならない。
第二の論理――厚生省:国家資格を持つ看護職をどう大量に養成するか。
1976年には、看護婦3年課程340か所、2年課程410か所、准看護婦748か所という巨大な養成網が存在していた。
第三の論理――医療現場:病院や診療所に必要な廉価な看護労働力をどう確
保するか。
第四の論理――看護教育:看護をより高度な専門教育へ発展させたい。
この四つの論理は、必ずしも一致しない。むしろ、相互に緊張関係を持っていた可能性がある。その接点に置かれた制度の一つが、1976年の専修学校だったのではないか。
11 したがって、「看護学校が専修学校になった」のではない
ここは、この論文の重要な言い換えになるかもしれない。従来の説明では、
看護学校
↓
専修学校に分類された
と見える。しかし、実際にはもっと複雑だったのではないか。1976年には、すでに厚生省の制度の下で大量の看護職員養成が行われていた。その一方で、学校教育制度には一条校という別の基準が存在した。そこで問題になったのは、
既存の看護職養成を、どの学校制度の中に位置づければ、現実に制度として運用できるか
だった。
この観点から見ると、専修学校制度は「看護教育を低いカテゴリーに入れた制度」と単純に理解することはできない。
むしろ、
厚生行政の看護職養成と、文部行政の学校制度との間を接続する制度
として見ることができる。
12 そして、この制度は「暫定措置」だったのか
ここで1976年から現在までを振り返る。1976年当時、看護教育を一条校として大規模に展開することには、教員などの条件に大きな制約があった。しかし、その後、看護教育は大学へ進出していく。文部科学省の資料によれば、看護系大学は1991年度には11大学だったものが、2025年度には289大学、307課程まで増加している。つまり、50年近い時間の中で、看護教育を大学教育として担う人的・制度的基盤は大きく拡大した。これは重要な歴史的変化である。しかし、それでも看護専門学校は残っている。
したがって、
1976年の専修学校化を、その後50年間の看護教育の最終形として理解してはいけない。
1976年の選択は、その時点の条件の中で成立した制度的選択だった。その後、条件が変化すると、大学化という別の道が拡大した。しかし、既存の専修学校制度も消滅しなかった。
13 「なぜ専修学校なのか」から「なぜ二重構造なのか」へ
ここまで来ると、最初の疑問が変わってくる。
最初の疑問は、
なぜ看護学校は専修学校なのか。
だった。
しかし、歴史的に見ると、もっと面白い問いがある。
なぜ日本の看護教育は、大学と専門学校という二つの制度を併存させる構造になったのか。
そしてさらに、
なぜ1976年の時点で、この二重構造が必要だったのか。
この問いならば、
- 看護婦
- 准看護婦
- 国家試験
- 厚生省
- 文部省
- 医師会
- 病院
- 診療所
- 開業医
- 教員資格
- 専修学校
という一見ばらばらな要素が、一つの制度史の中に入ってくる。
14 「現場のロジック」から見る1976年
ここで、私が最近考えている「logic of practice」という言葉を使ってみたい。
制度史は通常、
法律ができた
↓
制度が成立した
↓
現場がそれに従った
という形で記述される。しかし1976年の看護教育を調べていると、逆方向の動きが見えてくる。
- 現場には、すでに大量の看護職員養成所が存在していた。
- 医療現場には、看護労働力への需要があった。
- 看護教育側には、教育水準を高めたいという要求があった。
- 文部省には、一条校として扱う場合の制度的基準があった。
- 厚生省には、国家資格につながる養成制度があった。
- 医師会には、地域医療を維持するという別の現実があった。
- それぞれが異なる問題を抱えていた。
その結果として、専修学校という制度が選択された。もしそうだとすれば、専修学校制度は単なる「学校の分類」ではない。それは、
異なる行政制度、異なる専門職、異なる医療機関、異なる労働市場を、ひとまず一つの
教育制度の中で接続するための装置
だったことになる。
15 まとめに代えて――看護学校が専修学校になった理由は
したがって、現段階で私の考えは、
1976年の看護教育の専修学校化は、看護教育の大学化を妨げる一つの障害としての教員問題だけではなく、すでに全国に展開していた看護婦・准看護婦養成網、国家資格制度、厚生省と文部省の行政区分、地域医療を支える医療労働力の需要、そして看護教育の高度化要求など、複数の現実が交差する地点で成立した制度的選択であった。
としておきたい。そして、1976年という年を理解するために、最も重要な数字の一つが、
看護婦3年課程340か所+2年課程410か所=750か所
という厚生省の養成所数である。その背後には、さらに748か所の准看護婦養成所が存在した。つまり、1976年の日本は、
「看護学校をこれから作る国」ではなかった。
すでに全国的な看護職養成システムを持っていた。問題は、
その巨大なシステムを、どの学校制度の中に、どのような人材構成で、どのような医療
労働市場と結びつけて置くのか。
そこに1976年の専修学校制度の問題があった。そして私は、この問題こそ、看護教育史を「制度の歴史」ではなく、
「現場が制度を必要とした歴史」
として読み直す入口になるのではないかと思う。
看護学校がなぜ専修学校なのか。
その答えは、文部科学省の分類表の中にあるのではない。1976年の日本の医療現場が抱えていた、生々しいまでの「現実のロジック」の中にこそ眠っている。
両者の違いを以下のように定義し直すことができる。
| 項目 | 厚生省の「看護婦養成所」としての側面 | 文部省・文科省の「看護学校(専修学校)」としての側面 |
| 主な目的 | 医療現場に不足する看護労働力・国家資格者の供給 | 高度な職業教育を施す学校教育機関としての組織運営 |
| よりどころ | 保健婦助産婦看護婦法(厚生行政) | 学校教育法・専修学校制度(文教行政) |
| 現場の実態 | 病院や医師会、自治体が「現場の必要性」から直結して設立・運営 | 一定の施設・組織基準を満たした「公的な学校」としての社会的人格 |
<参考記事>
文部科学省学校基本調査によると、専修学校の分野分類は次の通りである。
医療系(看護・リハビリ・臨床検査・歯科衛生など)
衛生系(調理・製菓・美容・理容など)
工業系(情報・建築・自動車・電気など)
商業実務系(経理・販売・ビジネス・観光など)
文化・教養系(語学・音楽・美術・デザインなど)
服飾系(ファッション・服飾デザイン)
教育・社会福祉系(保育・介護・福祉)
農業系(農業・園芸・畜産)
ところが、今やそのカテゴリーに含まれない分野の専門学校が多数出現している。
1. 分野がユニークな専修学校
一般的な医療・工業・商業ではなく、分野自体が特殊で、全国に数校しかないタイプ。
◎ ① 動物系(動物看護・トリマー・動物飼育)
動物園・水族館と連携する学校もある
飼育技術・動物行動学など、大学では学びにくい領域
全国に約30校前後の希少分野
◎ ② マンガ・アニメ・声優
日本独自の文化産業に直結、J-カルチャーとして人気の分野
制作スタジオと連携した実習が多い
東京・大阪に集中(都市文化依存度が極端に高い)
◎ ③ ゲームクリエイター・eスポーツ
ゲームプログラミング、CG、サウンド、シナリオ
eスポーツ専修学校は 全国で十数校
新しい職業教育モデルとして注目
◎ ④ 航空(パイロット・整備・グランドスタッフ)
航空整備は国家資格と直結、大学の専門性に合致しい実践学
空港隣接の専修学校も存在
分野としては非常に希少
◎ ⑤ 海洋・ダイビング・水中作業
海洋調査・潜水士・水中施工
専修学校でしか学べない特殊技能
◎ ⑥ 鉄道(運転士・車掌・鉄道サービス)
鉄道会社と連携した実習
鉄道専門学校は全国で数校
教育分野は一般的でも、教育方法・制度設計がユニークな学校。
◎ ①「職人系」学校(和菓子・漆・伝統工芸)
京都・金沢・長野などに点在
伝統工芸の技能継承を担う
大学では扱えない“徒弟制+学校教育”のハイブリッド
◎ ②「地域密着型」学校(観光・農業・林業)
地域産業と直結
観光専修学校は北海道・沖縄に多い
農業系は北海道・九州に限定的
◎ ③「高度専門職」学校(臨床工学・義肢装具・救急救命)
医療系の中でも特に専門性が高い
国家資格と直結し、大学より実務密度が高い
◎ ④「芸術実務」学校(舞台照明・音響・舞台制作)
劇場・ライブハウスと連携
芸術の“裏方”を専門的に育成する希少分野
◆ 3. 分野別の「面白さ指数(OI)」モデル
あなたの研究スタイルに合わせて、専修学校の“面白さ”を数理モデル化すると次のようになる。
:分野の希少性(全国校数の少なさ)
:都市文化依存度(東京・大阪集中度)
:職業の独自性(大学では学べない度)
このモデルで最も高い値を示すのは:
◎ 上位分野(面白さ指数が高い)
海洋・潜水系
鉄道系
マンガ・アニメ・声優系
航空系
伝統工芸系(漆・和菓子・染織)
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