大関和の「日本式看護」論 ――『看護婦派出心得』にみる現場のロジック

<議論のチャート>

欧米の看護を学ぶ → 日本の現場に入る → 現場で「ずれ」が生じる → 大関和が一つずつ処理する → その経験を言語化する → 『心得』になる → 教育される → 組織化される → 日本の看護職として定着する

 <我々の議論の前提>

大関和は、既に存在していた「看護」という職業を説明したのではない。患者を前にして繰り返し発生する問題を一つずつ処理することで、「看護とは何をする仕事なのか」というロジックそのものを作っていった。

 『看護婦派出心得』を一覧するだけでも、大関和は抽象的に「看護婦はこうあるべきだ」と説く啓蒙家ではないと気付くはずである。彼女が繰り返し考えているのは、

  • 患者が眠れないとき、看護婦はどうするのか
  • 患者とどういう距離で話すのか
  • 何を話してよく、何を話してはいけないのか
  • 医師の指示をどう実行するのか
  • 注射の前に何を確認するのか
  • 手術患者が怯えているとき、看護婦自身はどう振る舞うのか
  • 夜勤・睡眠をどう管理するのか
  • 病家で空いた時間をどう使うのか
  • 看護婦の不品行が発生した場合、看護婦会はどうするのか

という「その場でどう判断し、どう行動するか」であった。

なお、本稿は、山本智子先生(福岡看護専門学校)のご示唆と看護教育観に関する対話の中から、アイディアを得て執筆に着手したことに深甚の感謝を申し述べたい。しかしながら、本稿の誤り・無理解などはすべて本論者の責任に帰す。


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大関和は「日本式看護」をどう作ったのか

――『看護婦派出心得』にみる現場のロジック

はじめに――大関和は何を「作った」のか

大関和(1858―1932)について語るとき、私たちはしばしば、彼女を日本の近代看護の先駆者、あるいは看護教育の先駆者として位置づける。確かに、それは間違いではない。しかし、そのような人物評価から出発すると、一つ重要な問題が見えなくなる。

大関和は、いったいどこから「看護」を作ったのか。

ここでいう「作った」とは、もちろん、彼女が一人で近代看護制度を創設したという意味ではない。近代看護の成立には、欧米の看護思想、宣教師、医師、病院、看護学校、教育者、行政、そして国家制度など、多くの要素が関わっている。しかし、制度や思想が存在すれば、それだけで患者の前で看護ができるわけではない。患者は教科書通りには動かない。

熱が出る。眠れない。しゃっくりが止まらない。口腔内が汚れる。注射をしなければならない。手術を前にして不安になる。患者と家族との関係がある。医師から指示が出る。指示された通りに処置しても、期待した結果が出ないこともある。さらに派出看護の場合、看護婦は病院という制度的空間ではなく、患者の「病家」に入り込む。そこには家族の生活があり、家庭の事情があり、秘密があり、看護婦自身の生活管理の問題もある。

その一つ一つに対して、

「その場で、どうするのか」

を決めなければならない。そして、同じような問題が何度も発生すれば、個人の経験はやがて「心得」になる。「心得」は教育の教材となり、看護婦会の規則となり、さらに試験制度や行政規則へと接続していく。本稿では、この過程を「現場のロジック」という視点から読み直したい。

 さて、大関和は既に完成していた「看護」という職業を単に説明したのではない。患者を前にして繰り返し発生する問題を一つずつ処理することで、「看護とは何をする仕事なのか」というロジックそのものを作っていった。『看護婦派出心得』を一覧するだけでも、大関和が抽象的に「看護婦はこうあるべきだ」と説く啓蒙家だけではないことに気づく。彼女が繰り返し考えているのは、

  • 患者が眠れないとき、看護婦はどうするのか
  • 患者とどういう距離で話すのか
  • 何を話してよく、何を話してはいけないのか
  • 医師の指示をどう実行するのか
  • 注射の前に何を確認するのか
  • 手術患者が怯えているとき、看護婦自身はどう振る舞うのか
  • 夜勤・睡眠をどう管理するのか
  • 病家で空いた時間をどう使うのか
  • 看護婦の不品行が発生した場合、看護婦会はどうするのか

という、「その場でどう判断し、どう行動するか」という問題なのである。したがって、本稿では大関和の仕事を、

現場の問題 → 観察 → 判断 → 処置 → 医師との連携 → 経験の言語化 → 教育 → 職業規範 → 組織化・制度化

という流れの中に位置づけたい。

 この視点に立つと、『看護婦派出心得』は単なる「看護婦の心得集」ではなくなる。それは、近代日本において看護婦が何を見て、何を危険と判断し、どこまで自分で処理し、どこから医師に委ね、患者や家族とどのように接し、そして自らをどのような職業人として形成していったのかを記録した、現場知の集積として読むことができるからである。

Ⅰ 大関和はどこから来たのか

 大関和は安政5年(1858)、下野国那須郡黒羽、現在の栃木県大田原市に生まれた。彼女のプロフィールについては、すでに多くの研究・紹介があるため、本稿では詳細を繰り返さない。那須看護短期大学・那須看護専門学校の大関和研究室などに詳しい。ここで注目したいのは、彼女がどのような経路から「看護」の世界に入ったのかという問題である。1886年12月、28歳で桜井女学校看護婦養成所に入学した。しかし、大関和は単に「看護婦養成所で学んだ女性」ではなかった。桜井女学校では看護学を学び、さらに東京帝国大学医科大学第一医院において実習を経験した。当時の日本では、近代的な看護教育そのものが形成途上にあった。

 桜井女学校ではメアリー・T・P・トゥルーによる教育が行われ、東京帝国大学医科大学第一医院ではアグネス・ヴェッチの指導を受けた。1887年10月には、東京帝国大学医科大学第一医院が桜井女学校の生徒六名を受け入れ、看護婦講習科を開始した。1888年10月、大関和ら六名は桜井女学校の第一回卒業生であると同時に、第一医院における看護教育の第一期の卒業生ともなった。第一医院の証明には、

「右者、医科大学第一医院ニ於テ看護法及其実習ヲ練習セリ依テ之を証す」

と記されている。この事実に注目したい。大関和は、「看護学」と「看護実習」の双方を経験した最初期の看護婦だったからである。しかも、卒業後には東京帝国大学医科大学第一医院の外科病棟で勤務し、主任看護婦として実務にあたり、さらに看護婦教育にも従事した。

ここで、彼女は教科書に書かれた看護を「知っている」だけではなくなった。患者を目の前にして、

何を見るか。
何をするか。
何をしてはいけないか。

を判断する立場に立ったのである。ここから、大関和の「現場のロジック」が始まったと考えることができる。

Ⅱ 「日本式看護」とは何か

ここで、本稿の表題に掲げた「日本式看護」という言葉について、あらかじめ定義しておきたい。

「日本式看護」という言葉は、あたかも「欧米式看護」に対置される、日本固有の看護を意味するようにも受け取られる。しかし、本稿ではそのような意味では用いていない。ここでいう「日本式看護」とは、日本文化に固有の本質的な看護を意味するものではない。また、大関和が欧米の近代看護を拒絶し、それとは異なる「日本独自の看護」を意図的に創出した、と主張するものでもない。

 むしろ、その逆である。大関和の出発点には、欧米から導入された近代看護があった。彼女はそれを学んだ。そして、それを実践した。問題は、その看護知を日本の具体的な現場に持ち込んだときに、何が起こったのか、である。欧米で体系化された看護知を日本の患者、家庭、医師、看護婦、病院、派出看護、社会制度の中で実践すれば、そこには必ず「ずれ」が生じる。

教科書にはない患者。

教科書にはない家庭。

教科書にはない人間関係。

教科書にはない医師との関係。

教科書にはない看護婦自身の疲労。

その「ずれ」を処理するために、看護婦は判断しなければならない。

その判断が繰り返されれば、経験になる。

経験が言語化されれば、心得になる。

心得が教育されれば、職業知になる。

職業知が組織に蓄積されれば、職業規範になる。

したがって、ここでいう「日本式看護」とは、

欧米から導入された近代看護の知識・技術が、日本の患者、家庭、医師、看護婦、病院、派出看護、社会制度という具体的な現場に適応する過程で変形・再構成された看護実践

を意味する。

これは「日本人だからこうする」という文化本質論ではない。むしろ、

同じ看護知であっても、それが置かれる現場が変われば、必要とされる判断、行為、規範、職業倫理も変わる。

という意味での「日本式」である。したがって、

欧米看護 → 日本看護

という単純な移植モデルではなく、

欧米看護 → 日本の現場 → 問題・ずれ → 判断 → 修正 → 新しい実践

という循環を考えたい。この意味で、「日本式看護」は最初から完成された体系ではない。

それは、現場における適応と再構成の結果として形成されるものなのである。

Ⅲ 最初の問いは「看護とは何か」ではない

大関和著『看護婦派出心得』第一版は、明治32年(1899)6月に刊行された。

その冒頭には、

「夫れ看護婦たらんとする者は、先つ普通の看護学を修むるを要す」

とある。まず「普通の看護学を修むる」ことを要求する。すなわち、大関和は近代看護の知識を否定しているのではない。その上で、看護婦に求められる精神として、

「仁慈、敬愛、温和、忍耐、謙遜」

を挙げ、さらに「挙動、静粛、品行、方正、言語を慎み」とする。

ここには、欧米から導入された近代看護と、日本の社会における儒教に裏付けられた職業規範との接合が見える。しかし、重要なのは、これを単純に「日本的道徳」として片付けないことである。

  なぜ、「忍耐」なのか。

  なぜ、「謙遜」なのか。

  なぜ、「言語を慎み」なのか。

  なぜ、「挙動、静粛」なのか。

その答えは、理念そのものよりも、実際の患者との関係に求められるのではないかと考えた大関和は、

  看護婦は患者のすぐそばにいる。

  医師より長い時間、患者と接する。

  そして派出看護婦の場合には、患者の家庭に入る。

そこで看護婦が不用意な発言をすれば、患者だけでなく家族との関係にも影響する。そう考えるなら、

道徳が先にあったのではなく、現場の問題が道徳規範を必要とした

と読むことができる。ここに「現場のロジック」の重要な特徴がある。

Ⅳ 「人命保護」は理念ではなく、職務の定義だった

大関和は看護婦について、

「看病婦は人命保護の大任」

と述べる。さらに、

「患者の安全を計り其順序を正うし患者のために絶へす注意して自己の本分を尽すを以て第一の義務」

とする。ここで注目したいのは、単に「患者に優しくしましょう」という精神論ではない。

そこには明確な仕事の構造がある。

  第一に、患者の安全を計る。

  第二に、順序を正うする。

  第三に、絶えず注意する。

  第四に、自己の本分を尽くす。

つまり看護とは、患者の身体を単に「世話する」仕事ではない。患者の状態を継続的に観察し、安全を維持し、必要な行為を適切な順序で実行する仕事である。ここに、大関和による業務ロジックを見ることができる。「人命保護」という言葉だけを見れば理念である。しかし、その理念を具体的な行為に分解すると、

安全 → 順序 → 注意 → 職務遂行

となる。大関和の看護論は、抽象的理念を実際の仕事へ落とし込んでいく。ここに彼女の特徴がある。

Ⅴ 「多弁は一の不品行」――奇妙な規則の意味

大関和の文章の中でも、特に興味深いのが、

「看病婦の多弁は一の不品行」

という一文である。現代の感覚からすれば、なぜ「多弁」が「不品行」なのかという疑問が生じる。患者とのコミュニケーションの必要性を無視した暴論だと理解されがちである。確かに単純な道徳論として読めば、

「看護婦はおしゃべりをするな」

というだけの話になってしまう。しかし、派出看護という現場から考えると意味が変わる。

  看護婦は患者の家庭に入る。

  患者や家族と近い距離に置かれる。

そのため、看護婦の言葉は、単なる私的会話では終わらない。不用意な発言によって、

  • 家庭内の秘密を漏らす
  • 患者の病状について不用意な意見を述べる
  • 医師の診療を批判する
  • 家族間の問題に介入する
  • 患者の不安を増幅する

といった危険が生じる可能性がある。したがって、「多弁」は単なる性格上の欠点ではない。派出看護という職業そのものの信用を損なう危険行為と見ることができる。大関和が「不品行」と呼んだものを、現代的な言葉に置き換えるなら、そこには職業倫理とリスク管理が結びついた規範を見ることができる。

「多弁=不品行」は、単なる道徳規範ではなく、派出看護という特殊な労働形態から生じた職業統制の一つの原理

だった可能性がある。重要なのは、看護婦の人格を矯正することだけが目的だったと考えないことである。看護婦が患者の家庭に入るという仕事の性格そのものが、「何を言ってよいか」という新しい職業上の問題を生み出したのである。

Ⅵ 「近くにより静に正しく語る」――身体化された看護技術

さらに興味深い記述がある。

「病人と語るに遠方又は背部に居てはいけません、近くにより静に正しく語らねばなりません」

これは、「患者には親切に話しかけましょう」という精神論として読む必要はない。大関和は看護婦の身体そのものを規定している。

   どこに立つのか。

   どのくらい近づくのか。

   どのような声で話すのか。

   どのように言葉を発するのか。

つまり、看護は知識だけではなく、身体の使い方そのものが職業技術であると教えている。このような記述は、看護技術の中に「身体化された知」が存在することを示している。

   患者のそばに立つ。

   患者を見る。

   患者に近づく。

   声をかける。

   声量を調整する。

   言葉を選ぶ。

これらは一見すると些細な行為である。しかし、実際の看護は、こうした些細な行為の積み重ねによって成立する。ここに、大関和が発見した「現場のロジック」がある。近代看護の形成とは、欧米式の看護学教科書を日本語に移すことだけではない。患者の身体のそばで、看護婦自身の身体をどう動かすかという暗黙知を、言語化していく過程でもあった。

Ⅶ 「面白い話」を研究する看護婦

ここで、一見すると矛盾する記述に出会う。大関和は「多弁」を戒める一方、

「常に面白き話を研究して置くべき」

とも記している。「多弁」と「面白い話」は矛盾するのだろうか。そうではない。大関和が求めているのは「おしゃべり」ではなく、患者の状態に応じて会話する能力である。患者には病気だけではなく、不安、孤独、退屈、恐怖がある。したがって看護婦には、

沈黙すべき時と、話すべき時

を判断する能力が求められる。ここでは、

観察 → 判断 → 行動

という現場のロジックが明確に見える。「会話」そのものが看護行為なのである。しかも、その会話は患者の状態によって変わる。看護婦に要求されているのは、あらかじめ決められた会話文を暗記することではない。

  患者を観察し、その患者に今何が必要なのかを判断し、それに応じて会話を選択するこ  

  とである。

ここにも、「日本式看護」を考える重要な材料がある。欧米から導入された「看護」という知識が、日本の患者と看護婦との具体的な人間関係の中で、きわめて細かな行動規範へと変換されているからである。

Ⅷ 看護婦は医師ではない――境界線の発見

大関和の看護論でもっとも重要なものの一つが、医師との職務境界である。彼女は、

「如何程熟練すると雖ども医師の範囲に入るる事はロをかたく禁ぜねばなりません」

とする。さらに、

「医師の命によりて職を務むるものでありますれば是に対するに礼義を正し、仮りにも批評がましき言葉などなす事なく常に尊敬の意を表さねばなりません」

という。これだけを切り取ると、近代看護は医師への強い従属関係の中にあったように見えるかもしれない。もちろん、その側面を否定する必要はない。しかし、ここでさらに考えるべきことがある。大関和が示した、

「医師の範囲に入るな」

という規範は、看護婦を従属させるための道徳規範だけだったのだろうか。私は、ここにもう一つの意味を見ることができると思う。それは、

看護という新しい専門職が成立するための境界線の発見

である。看護婦が医師の仕事をすべて行うのであれば、「看護婦」という独立した職業を定義することが難しくなる。その逆に、

医師には医師の仕事がある。
看護婦には看護婦の仕事がある。

という境界が成立すれば、看護婦の職能を定義することができる。職業は、「できること」の集合だけではない。

  「してはいけないこと」の境界を持ったとき、一つの職業として輪郭を持つ。

大関和の記述は、その境界形成の過程として読むことができる。

Ⅸ 境界線はなぜ必要だったのか

ここでは、少し慎重に考える必要がある。大関和自身が、医療事故や責任体系について現代的な意味で「三層構造」に分けて論じているわけではない。しかし、彼女の規範を現場から読み直すなら、少なくとも次のような危険を考えることはできる。

① 言語の危険――判断の混同

看護婦は患者のそばに長時間いる。そのため、看護婦の言葉が医師の判断として受け取られる可能性がある。看護婦が不用意に、

「この薬は必要ない」

「この病気なら大丈夫」

などと判断を示せば、患者や家族がそれを医師の判断と誤解する危険がある。したがって、「批評がましき言葉」を禁じることは、単なる礼儀ではなく、医療上の判断主体を混同させないための境界設定として読むことができる。

② 職能の危険――専門性の曖昧化

看護婦が医師の仕事を代行するようになれば、看護婦は「医師の代用品」になる。しかし、看護婦には看護婦独自の仕事がある。

  患者の安全を見る。

  状態を観察する。

  身体を清潔にする。

  医師の指示を実行する。

  処置を準備する。

  異常を発見する。

  医師へ報告する。

  患者と接する。

これらを一つの職業としてまとめるには、医師との境界が必要になる。したがって、大関和の境界規範は、看護婦を弱くするだけのものではなく、看護婦という職業を看護婦として成立させるための職能防御としても読むことができる。

③ 制度の危険――責任体系の曖昧さ

明治期の医療制度が、今日と同じような職種間の責任体系を持っていたわけではないことも考慮しなければならない。このような状況では、職務の境界が曖昧であれば、誰が何を判断したのかが不明確になる。したがって、

「医師の範囲に入らない」

という規範には、看護婦自身の職務と責任の範囲を明確にする意味も含まれていた可能性がある。ただし、ここは史料によるさらなる検証が必要である。大関和がこのような制度的危険を明確に意識していたと断定するのではなく、彼女の規範が結果としてそのような問題を処理する働きを持ったと考える方が、現段階では慎重である。

Ⅹ 行為・禁止・身分――三つの規範

大関和の看護婦規範を整理すると、少なくとも三つの層が見えてくる。

① 行為規範――何をするか

  • 清潔を保つ
  • 体位を整える
  • 食事を管理する
  • 罨法を行う
  • 注射を実施する
  • 患者を観察する
  • 医師の指示を実行する

② 禁止規範――何をしてはならないか

  • 医師の範囲に入らない
  • 多弁を慎む
  • 医師を批評しない
  • 患者・家族との関係に不用意に介入しない

③ 身分規範――専門職としてどう振る舞うか

  • 礼義
  • 品行
  • 態度
  • 忍耐
  • 謙遜
  • 自己管理

この三層が組み合わされることによって、看護婦という職業に輪郭が与えられる。すなわち我々の観点からすれば、

何をするか

だけではない。

何をしてはいけないか。

さらに、

看護婦として、どのような人間でなければならないか。

までが一つの職業規範に組み込まれている。この意味で、『看護婦派出心得』は単なる技術書ではなく、新しい職業の境界を作る文書でもあった。

Ⅺ 注射の記述――ここに「現場のロジック」が凝縮している

『看護婦派出心得』に記された注射法は、さらに重要である。そこでは、医師の指示を受けた上で、

  • 器具を準備する
  • 器具を消毒する
  • 薬液を準備する
  • 注射部位を消毒する
  • 注射器を保持する
  • 空気を排出する
  • 皮下に刺入する
  • 薬液を注入する
  • 針を抜く
  • 穿刺部を圧迫する
  • 必要な処置を行う

という一連の手順が記述されている。重要なのは、単に「注射の方法」が書いてあることではない。その背後に、

医師の指示

看護婦による準備

消毒

実施

実施後の処置

という業務の連鎖が存在する。しかも、各段階には失敗の可能性がある。

  器具が不潔なら感染する。

  薬液を誤れば事故になる。

  空気が残れば危険である。

  穿刺後の処置を誤れば問題が生じる。

したがって、この記述は単なる技術伝授ではなく、事故を防ぐために経験を手順へ変換したものとして読むことができる。ここに、

現場で起こる危険 → 危険を避けるための手順 → 手順の教育

というロジックが見える。これは「現代の医療安全そのもの」とまで言うべきではないが、少なくとも医療行為を手順に分解し、失敗可能性を減らすという発想の萌芽を見ることはできる。

Ⅻ 「しゃっくり」という小さな異常が教えるもの

さらに興味深いのは、しゃっくりへの対応である。

  まず一定の方法を試す。

  それでも治らなければ、別の方法を試す。

  許される場合には飲料を用いる。

それでも改善しなければ、

医師に報告して指示を待つ。

ここには明確な段階構造がある。

通常の処置

効果の確認

別の処置

改善しない

医師へ報告

次の指示を待つ

これは極めて重要な構造である。看護婦の仕事は、「決められた処置をすること」だけではない。

   処置の結果を見る。

   異常を認識する。

   自分の権限の限界を判断する。

   必要なら上位者へ情報を渡す。

この瞬間、看護婦は単なる作業者ではなくなる。看護婦は、

情報を観察し、判断し、処理し、伝達する職業

になる。「しゃっくり」という一見些細な事例だからこそ、この構造がよく見える。大きな病気や手術の記述では、医師や病院という大きな制度が前面に出る。しかし、しゃっくりのような小さな異常では、看護婦が現場で何を見て、どこまで判断し、いつ医師に報告するのかが露出する。このような「小さな事例」を拾うことこそ、現場のロジックを復元する上で重要である。

ⅩⅢ 口腔衛生――「看護」は病気の治療だけではない

大関和は、重病人であっても、

「毎朝歯磨を用ひてよく含嗽し」

食事や薬の前後にも含嗽することを勧める。さらに口腔内を不潔にすると、胃病や耳下腺・顎下腺の炎症を起こす恐れがあると説明する。ここにも、看護の独自領域が見える。看護婦が「患者を清潔にする」という道徳的行為をしているのではない。そこには、

清潔 → 合併症予防 → 回復

という因果関係の理解がある。看護とは、

治療そのものではないが、治療の成否を左右する身体管理

という独自の領域が形成されていると考えているからである。これは、「医師ではないが、単なる世話係でもない」という看護婦の位置を理解する上で重要である。医師が病気を診断し治療する。しかし、患者の身体を日々管理するのは看護婦である。この間に存在する領域を、大関和は一つ一つ具体化していった。

ⅩⅣ 手術室の看護婦――「恐怖する人間」から始まる専門職

大関和の手術患者に関する記述には、さらに異色のものがある。

  麻酔器具を準備する。

  必要な器具を消毒する。

  患者を呼ぶ。

  患者の様子を見る。

そして、いよいよ手術が始まる。ここで面白いのは、そこに「完全な看護婦」だけが描かれていないことである。

  患者は恐怖する。

  看護婦も緊張する。

患者から見れば、自分を手術室へ送り込む女性は、時には「鬼」のように見えるかもしれない。しかし、看護婦はその恐怖を抱えながら、仕事を遂行しなければならない。この記述の価値は、看護を感情のない機械的作業として描いていないことにある。そこには、

恐怖する患者と、緊張する看護婦

がいる。看護という職業は、恐怖する人間を前にして、自分自身の恐怖を制御しながら仕事をする職業でもある。これは「精神論」ではない。自己の感情を制御しながら、患者に必要な行為を実行するという職業上の技術である。この点で、手術場面の記述は、大関和の看護論のリアリティを非常によく示している。

ⅩⅤ 看護婦自身も「現場」で壊れる

ここで、看護婦自身の身体性という問題に目を向けたい。大関和自身が回想しながら、若い頃から身体的な病気に苦しみ、1907年、50歳のときにはリウマチを患い、約100日間寝たきりとなった。その後、那須の温泉で療養する。この経験の後に書かれたのが『実地看護法』である。これが起点となって、

  看護婦は患者の生命を守る。

しかし、看護婦自身も身体を持つ人間である。

  眠る。

  疲れる。

  病気になる。

そのため、大関和は看護婦自身の睡眠や生活管理について、

「眠らんとすれば眠り、醒んとする時は必ず醒める様に慣さねばなりません」

と書く。さらに、

「高尚なる看護婦は僅の時間も徒に費すことなく、正しき書を読み其道の進歩を計り又精神を養ひます」

と説く。ここにも「現場のロジック」がある。看護婦自身が身体を管理できなければ、患者を継続的に看護することはできないと強調する。彼女の発想は

患者管理の前提としての自己管理

である。これは単なる精神修養ではない。看護という仕事が継続的な労働である以上、看護婦自身の身体を維持することも職務遂行の条件になる。大関和自身が病気になった経験は、この問題を考える上で重要な意味を持っていた可能性がある。

ⅩⅥ 病家という「もう一つの現場」

ここで「派出看護」という仕事の特殊性に、議論の話題を立ち戻りたい。病院の中では、患者は医療施設という制度的空間に置かれる。しかし、派出看護婦は患者の家庭に入る。そこには、病気だけではなく、

  • 家族
  • 家庭生活
  • 生活習慣
  • 私的空間
  • 家庭内の秘密
  • 家族と医師との関係
  • 看護婦と雇用者との関係

が存在する。したがって、派出看護婦には病院看護とは異なる問題が発生する。「多弁は一の不品行」という規範も、この環境を抜きにしては十分理解できない。看護婦が患者の家庭に入れば、患者の生活そのものに接することになる。そのとき、

どこまで知ってよいのか。

どこまで話してよいのか。

どこまで介入してよいのか。

という問題が生じる。ここに、「日本式看護」を考える上で重要なポイントがある。大関和の看護は、病院という近代的施設だけで完結しない。患者の家庭という、日本社会の具体的な生活空間に入り込む看護として発達しているのである。欧米から導入された近代看護が、日本の家庭に入り込んだとき、看護婦の職業倫理はどう変わるのか。この問題は、今後さらに比較研究する必要がある。

ⅩⅦ 看護婦会という「現場の組織」

大関和の活動を『看護婦派出心得』だけで終わらせると、その歴史的意味を十分に捉えることができない。彼女は東京看護婦会の活動に深く関わり、1900年にはその責任を担うようになる。その後、1909年には小林静子とともに大関看護婦会を設立し、さらに夜学による実地看護法の教育にも取り組んだ。注目したいのは、

経験 → 個人の心得

で終わらなかったことである。経験は、

教育へ移される。

教育は、

  看護婦会

に蓄積される。

看護婦会の実践は、

規則

になる。

規則は、

行政制度

と接続する。

つまり、大関和は一人の看護婦として現場に立っただけではない。現場で得た知識を、他の看護婦が再現できる形に変換した。ここに大関和の歴史的意味がある。


ⅩⅧ 『看護婦派出心得』は「本」ではなく、更新される現場知だった

『看護婦派出心得』は一冊の固定された本ではない。

第一版は明治32年(1899)6月。

第二版は明治35年(1902)3月。

第三版は明治39年(1906)12月。

第四版は明治44年(1911)12月。

第五版は大正6年(1917)8月。

第六版は大正8年(1919)11月。

と版を重ねている。

この事実自体が重要である。

もし最初から完成された看護論が存在したのであれば、なぜ改訂が必要だったのか。

もちろん、版の改訂にはさまざまな理由があり、すべてを「現場の変化」に帰することはできない。

しかし、少なくとも、

看護婦を取り巻く現実が固定されていなかった

ことは確かである。

患者が変わる。

医療技術が変わる。

看護婦の数が増える。

派出看護の組織が変わる。

行政規則が変わる。

看護婦試験制度が整備される。

すると、現場で必要となる情報も変わる。

第三版には徳大寺侯爵の病床日誌の写しなどが収録される。

第四版には日記記載例や「教えの庭の会」、東京府令などが見える。

第五版には看護婦規則施行細則や看護婦試験願が収録される。

第六版にも看護婦規則施行細則が掲載される。

この変化は重要である。

最初の『心得』には、

「看護婦はどうあるべきか」

という職業規範が強く現れる。

しかし版を重ねるにつれて、

「看護婦という職業を社会の中でどう運用するか」

という制度的情報が入り込んでくる。

したがって、各版を単独の「本」として読むのではなく、

1899 → 1902 → 1906 → 1911 → 1917 → 1919

という時間軸の中で読む必要がある。

そこには、

現場知 → 教育知 → 職業知 → 組織知 → 制度知

への変換過程が刻まれている可能性がある。

 なお、大関和の実践例は関和『看護婦派出心得』第3版(明治39年12月発行)にある、

①徳大寺侯爵御病床日誌写し(明治37年1月)

②派出看護婦の実態

にて提示されている。

ⅩⅨ 制度が看護を作ったのか、看護が制度を作ったのか

ここで、本稿の中心的な仮説を提示したい。近代日本の看護史は、しばしば、

外国の看護思想

看護学校

病院

看護婦教育

国家資格

看護制度

という上から下への流れで説明される。もちろん、この流れは存在する。しかし、それだけでは説明できないのではないか。大関和の活動を見ると、別の流れが浮かび上がる。

患者を看る

問題が起こる

その問題に対処する

繰り返し発生する問題を経験として蓄積する

経験を言語化する

『看護婦派出心得』にする

教える

看護婦会に蓄積する

職業規範になる

行政規則と接続する

つまり、

制度が看護を作った

という一方向の説明だけではなく、

看護の現場で繰り返された問題への対処が、やがて看護という職業の制度を作っていった

という逆方向の説明も必要になる。これは現段階では作業仮説である。外国人宣教師、病院、医師、行政、国家制度など外部からの影響を過小評価してはいけない。しかし、だからといって、

「外国モデルが導入され、制度が整備され、看護婦がそれに従った」

とだけ考えるのも不十分である。制度を実際に動かしたのは、日本人の患者の身体のそばにいた日本人の看護婦大関和だったからである。

ⅩⅩ 大関和は欧米看護を「日本化」したのか

ここで、もう一度「日本式看護」という問題に戻る。大関和は欧米看護を拒絶したのではない。むしろ、彼女は欧米から導入された近代看護を深く学んだ。それでは、何が「日本式」になったのか。この問いに対して、現段階で「日本人固有の看護思想が生まれた」と答えることはできない。重要なのは看護知が使用される現場そのものが変わったことである。欧米で開発された看護知が、

  • 日本の患者に対して
  • 日本の家庭で
  • 日本の医師との関係の中で
  • 日本の看護婦に教えられ
  • 日本の派出看護という労働形態の中で
  • 日本の行政制度と接続しながら

使用される。その過程で、看護知は具体的な規則へと変換される。

「多弁を慎む」。

「患者とは近くにより静に正しく語る」。

「医師の範囲に入らない」。

「医師の指示に従う」。

「異常があれば報告する」。

「看護婦自身が睡眠を管理する」。

「病家で空いた時間には読書する」。

これらを一つ一つ見るだけなら、単なる細かな心得に見えるが、全体を通して見ると、

日本社会の具体的な現場で看護を成立させるための判断規則

が形成されていることが分かる。したがって、本稿のいう「日本式看護」とは、

欧米看護に対抗する看護

ではない。また、

日本文化の本質から自然に生まれた看護

でもない。それは、

欧米から導入された看護知と、日本の現場との間に生じた「ずれ」を処理した結果として形成された看護実践

なのである。

ⅩⅪ 「日本式看護」の核心は「ずれ」にある

ここで、本稿の仮説をさらに明確にしたい。

私は「日本式看護」を探すとき、

「日本的なものは何か」

を探すべきではないと思う。そうではなく、

「欧米から導入された看護知と、日本の現場との間にどのようなずれが生じたのか」

を探すべきである。その「ずれ」の発見こそ、そして、

大関和は、そのずれをどう処理したのか。

につながる。例えば、

①「多弁は一の不品行」という規則が、本当に日本の派出看護という環境から生じたのか。②「患者とは近くにより静に正しく語る」という規則が、欧米の看護書にも存在するのか。それとも大関和の実践において特に具体化されたものなのか。                ③医師への服従規範は、欧米看護の受容なのか、日本の医療制度に適応したものなのか。          ④病家における看護婦の行動規範は、日本の家庭構造や雇用関係とどのように関係するのか。

こうした比較を行うことによって初めて、「日本式看護」という概念は実証的な意味を持つ。本稿は「日本式看護」を既成の事実として宣言するものではない。

むしろ、

「日本式看護」というものが、どのような現場的変換の中から形成されたのかを探る

ことを目的とする。

ⅩⅫ 大関和の問いは「看護とは何か」ではなかった

ここまでの検討から、一つの仮説が浮かび上がる。大関和が生涯をかけて答えようとした問いは、必ずしも、

「看護とは何か」

という抽象的な問いではなかったのではなく、

「患者の前で、看護婦はどうすればよいのか」

だったのではないだろうかという本質的な問いである。

  ①患者が苦しんでいる。――どうするか。

  ②患者が眠れない。――どうするか。

  ③患者が不安になっている。――どうするか。

  ④しゃっくりが止まらない。――どうするか。

  ⑤注射をしなければならない。――どうするか。

  ⑥手術が始まる。――どうするか。

  ⑦医師の指示がある。――どうするか。

  ⑧医師の指示だけでは判断できないことが起こる。――どうするか。

  ⑨患者の家族がいる。――どうするか。

  ⑩看護婦自身が疲れている。――どうするか。

この「どうするか」は、「看護とは何か」を直接論じてはいない。しかし、

看護婦が次に何をしなければならないか

を一つ一つ決めていく。その蓄積が「看護」になっていく。これが大関和の看護論の核心だったのではないか。

ⅩⅩⅢ 大関和の本当の仕事は「経験を再現可能にしたこと」

大関和を「近代看護の先駆者」と呼ぶことには異論がない。しかし、本稿ではさらに一歩進めたい。大関和の最大の功績は、看護について新しい理念を語ったことだけではない。そうではなく、我々の目には

自分の経験を、他の看護婦が使える知識に変換したこと

にあったのではないだろうかとさえ断定できる。個人の経験は、そのままでは個人の経験にすぎない。「こういう場合にはこうする」と書けば、他人が学ぶことができる。「なぜそうするのか」まで示せば、

  それは判断基準になる。

  それを教育すれば、次の看護婦が同じ場面で使える。

  看護婦会に蓄積すれば、組織の知識になる。

  行政規則と結びつけば、社会制度になる。

ここで初めて、

現場知が制度知へ変換される。

この変換こそ、大関和研究で最も注目すべき問題ではないだろうか。

ⅩⅩⅣ 現場のロジックを可視化する

以上を整理すると、『看護婦派出心得』は次のように読み替えることができる。

現場で起きる問題看護婦がすること判断のポイント限界・境界最終的な形
患者の安全継続的に注意する異常の有無自己の本分職務規範
患者との会話距離・声・内容を調整する患者の状態多弁を避ける接遇規範
注射器具準備・消毒・実施手順と安全医師の指示技術規範
しゃっくり段階的に処置する効果を確認改善しなければ医師へ異常対応
口腔衛生清潔保持合併症予防治療とは区別看護領域
手術器具準備・麻酔補助患者の状態医師の領域を侵さない手術看護
病家への派遣生活・患者・家族に対応信用と職業倫理私生活への介入を避ける職業規範
看護婦自身の疲労睡眠・学習・自己管理継続勤務の能力自己の身体自己管理規範
不品行職業倫理を守る信用維持場合によって廃業職業統制

この表から見えてくるのは、「看護」というものが単一の理念から構成されていないということである。

  患者との会話。

  口腔衛生。

  注射。

  手術。

  異常への対応。

  医師への報告。

  家庭との関係。

  看護婦自身の生活。

それぞれ異なる現場の問題から、個別のルールが生まれている。それらが積み重なって初めて、「看護」という職業が形を持つ。

ⅩⅩⅤ 「現場のロジック」から「職業のロジック」へ

ここで、本稿の議論を一段階進めたい。大関和が行ったことは、単に個々の患者への対応を決めたことではない。個々の問題への対応を、

誰がやっても一定程度再現できる形

にしたことである。いわば、スタンダードプランの提出である。これは極めて重要である。

例えば、

「患者に優しくする」

だけでは教育できない。しかし、

「病人と語るに遠方又は背部に居てはいけません、近くにより静に正しく語らねばなりません」

ならば教育できる。

   「患者を清潔にする」だけでは教育できない。

しかし、口腔内の清潔保持について具体的な手順を書けば、教育できる。

   「注射に注意する」だけでは教育できない。

しかし、器具の消毒、薬液、空気の排出、穿刺後の処置まで分解すれば、教育できる。

  「異常があれば医師に相談する」だけでは抽象的である。

しかし、通常の処置、効果の確認、別の処置、改善しなければ報告、という段階を示せば、判断の手順になる。

つまり、大関和は、暗黙の経験明示的な手順へ変換している。そして、個人の経験職業の知識へ変換している。この変換こそ、「現場のロジック」が「職業のロジック」へ変わる瞬間である。

ⅩⅩⅥ 制度は終点ではなく、現場知の「上流」でもある

ただし、ここでも単純化は避けなければならない。現場から制度が生まれる一方で、制度もまた現場を規定する。したがって、

現場 → 制度

という一方向だけではない。実際には、

制度 → 現場 → 問題 → 調整 → 新しい実践 → 新しい規則 → 制度

という循環が存在したと考えるべきである。『看護婦派出心得』の版を追うと、この循環が見えてくる可能性がある。最初は職業上の心得が中心だった。しかし、

  看護婦会の活動が展開する。

  看護婦教育が行われる。

  行政規則が整備される。

  看護婦試験が制度化される。

すると、それらが再び看護婦の日常の実践を規定する。大関和の仕事は、

現場を制度に変換すること

だけではない。制度によって新たに生じた問題を、再び現場で処理することでもあった。

この意味で、近代看護は、

現場と制度との間を循環する知識システム

として成立していったと考えるべきではないだろうか

ⅩⅩⅦ 大関和は「看護婦」を作ったのではない。「看護」を作った

大関和を、

  • 近代看護の先駆者
  • 最初期の看護婦
  • 看護教育者
  • 看護婦会の指導者
  • キリスト教社会活動家

と位置づけることは容易である。しかし、重ねて強調するように、それだけでは彼女が生涯をかけて取り組んだ仕事の核心を十分に捉えられない。大関和が行ったことは、もっと根本的だった。

  患者がいる。

  看護婦が現場に派遣される。

  予想外の問題が発生する。

  看護婦には一定の判断、技術、倫理が必要になる。

  その経験を規則・教育・教科書にする。

  それを他の看護婦へ伝える。

  看護婦会に蓄積する。

  やがて制度につながる。

そこには、

現場 → 経験 → 判断 → ルール → 教育 → 組織 → 制度

という一つの流れがある。しかし、大関和の場合には、その前段にもう一つ重要な流れがあった。

欧米の看護知 → 日本の現場 → ずれ → 判断 → 再構成

であった。したがって、二つの流れを重ねると、次のようになる。

欧米から導入された看護知

日本の患者・病院・家庭・医師・看護婦という現場

「そのままでは処理できない」問題の発生

観察・判断・処置

経験の蓄積

経験の言語化

『看護婦派出心得』

教育

看護婦会

職業規範

行政・制度との接続

この過程を経て形成された看護実践を、本稿では便宜上、

「日本式看護」

と呼びたい。ここで重要なのは、「日本式看護」を欧米看護の対立物としないことである。

それは、

欧米看護の日本的否定

ではまったくない。また、

日本文化の本質から生まれた国粋的な看護

でもない。そうではなく、

欧米から導入された看護知が、日本の具体的な現場で使用されることによって変形・再構成されたもの

である。

まとめに代えて――「どうするか」の積み重ねが「看護」になった

大関和を日本の近代看護史における先駆者として評価することに異論はない。しかし、本稿はその評価にとどまらない。大関和は、欧米から導入された近代看護を学んだ。それを日本の現場に持ち込んだ。そこでは、患者の身体、患者の心理、家庭、家族、医師、看護婦自身の身体、そして派出看護という労働形態に伴うさまざまな問題に直面した。彼女は、それらを一つずつ処理した。

 多弁を戒めた。

  患者との距離を指定した。

  「面白き話」を研究させた。

  医師との境界を定めた。

  注射の手順を分解した。

  異常への対応を段階化した。

  口腔衛生を看護の領域として具体化した。

  手術患者の恐怖と看護婦自身の緊張を記録した。

  看護婦自身の睡眠と学習を規定した。

  病家での職業倫理を定めた。

  不品行に対しては廃業まで求めた。

そして、それらを『看護婦派出心得』として次の看護婦へ伝えた。つまり、大関和が答え続けた問いは、必ずしも、

「看護とは何か」

ではなく、、

「患者の前で、看護婦はどうすればよいのか」

だったのではないだろうか。

  患者が苦しんでいる。ーーどうするか。

  患者が眠れない。ーーどうするか。

  患者が不安になっている。ーーどうするか。

  しゃっくりが止まらない。ーーどうするか。

  注射をしなければならない。ーーどうするか。

  手術が始まる。ーーどうするか。

  医師の指示がある。ーーどうするか。

  医師の指示だけでは処理できない問題が起こる。ーーどうするか。

  患者の家族がいる。ーーどうするか。

  看護婦自身が疲れている。ーーどうするか。

この「どうするか」の一つ一つに答えていく。その答えを記録する。教える。共有する。修正する。組織に蓄積する。やがて制度につなげる。その結果として、「看護」という職業が具体的な形を持っていく。

 したがって、私は大関和の歴史的位置を、単に「日本の近代看護の先駆者」としてではなく、次のように捉えたい。

大関和は、既に存在していた「看護」という職業を日本に紹介したのではない。

欧米から導入された近代看護の知識・技術を日本の現場に置き、そこで繰り返し発生する具体的な問題を処理し、その経験を言語化し、教育し、組織化することによって、「看護」という職業が現場で判断するためのロジックそのものを形成していった。

そして、その過程で生まれたものを、本稿では仮に「日本式看護」と呼ぶ。『看護婦派出心得』は、その過程を読み取ることのできる重要な史料である。そこに書かれているのは、単なる「看護婦の心得」ではない。

  患者の安全をどう守るか。

  異常をどう発見するか。

  医師とどう分業するか。

  患者とどう接するか。

  どこまで自分で判断するか。

  どこから他者に委ねるか。

  看護婦自身をどう管理するか。

  そして、これらを次の看護婦へどう伝えるか。

言い換えれば、『看護婦派出心得』には、近代日本の看護職が、自分たちの仕事を定義していった過程が刻まれている。だからこそ、大関和を理解するために最も重要なのは、彼女が「看護とはこうあるべきだ」と語った場所だけではない。

「なぜ、この場面で、この指示を書いたのか」

という一つ一つの記述の背後にある「なぜ」である。

なぜ、多弁を禁じたのか。

なぜ、患者との距離まで指定したのか。

なぜ、「面白き話」を研究させたのか。

なぜ、口腔衛生をこれほど細かく書いたのか。

なぜ、注射の手順をここまで分解したのか。

なぜ、しゃっくりのような些細な異常を記録したのか。

なぜ、医師との境界を繰り返し強調したのか。

なぜ、看護婦自身の睡眠や読書まで規定したのか。

なぜ、病家での看護婦の振る舞いを細かく規定したのか。

そして、

なぜ、これを「心得」として書き残す必要があったのか。

この「なぜ」を一つずつ追っていけば、大関和という一人の女性の思想史を超えて、日本において看護という新しい専門職が、患者の身体のそばからどのように立ち上がったのかが見えてくる。そこには、単純な「欧米から日本への文化移転」では説明できない過程がある。

欧米から看護知が入ってくる。

日本の現場で、それが使われる。

そこで「ずれ」が生じる。

看護婦が判断する。

経験が蓄積される。

経験が言語化される。

言語化された経験が教育される。

教育された知識が職業規範となる。

職業規範が組織に蓄積される。

組織が制度と接続する。

この循環の中で、欧米由来の看護知は、そのままではなくなる。

現場が知識を変える。

そして、変えられた知識が再び現場に戻ってくる。

ここに、大関和の仕事の本当の面白さがある。

彼女は「看護婦」という名前だけを社会に定着させたのではない。

看護婦が、

何を見るのか。
何を判断するのか。
何をするのか。
何をしてはいけないのか。
いつ医師に報告するのか。
どこまで患者に近づくのか。
どこから患者の家庭に踏み込んではならないのか。
そして、自分自身をどう管理するのか。

という、一つの職業固有の判断体系を形成したのである。その意味で、大関和は「看護婦」を作ったのではない。

「看護」を作った。

そして、さらに言えば、

「看護婦が現場で判断する」という職業のロジックを作った。

これこそが、大関和の仕事を「日本式看護」という視点から捉え直すことの重要な意味ではないだろうか。

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