占領期看護改革の二つの実験場 ――東京看護教育模範学院と国立岡山病院附属模範高等看護学院
占領期看護改革の二つの実験場
――東京と岡山、アメリカ型改革と英連邦的環境の交差
はじめに――「二つのモデルスクール」をどう見るか
戦後日本の看護改革を考えるとき、東京看護教育模範学院と国立岡山病院附属模範高等看護学院は、単なる「優れた看護学校」の二例ではない。両校は、占領期に新しい看護教育と看護業務のあり方を実際の医療現場に投入し、その結果を観察するための、いわば二つの実験場であった。しかし、ここで一つ重要な問題がある。
従来の理解では、両校ともGHQの指導によって設置された「モデルスクール」として一括して扱われやすい。たしかに、その理解は間違ってはいない。GHQ/PHW看護課は、戦後日本の看護教育を改革するため、東京にモデルスクールを設け、さらに岡山を地方におけるモデルスクールとして位置づけた。岡山の学校史も、GHQの指示のもと、カールソン、後にランディーンが派遣されたことを記録している。しかし、両校が置かれた環境は同じではなかった。
東京には、聖路加女子専門学校と日本赤十字看護学校という、戦前から看護教育を担ってきた民間・準公的な看護教育機関が存在していた。1946年に設立された東京看護教育模範学院では、GHQ看護スタッフが関与し、アメリカの教科書などを参考に新しい教育内容が形成されていった。
一方、岡山では、モデルスクールの置かれた国立岡山病院そのものが、1946年6月から1947年12月まで英連邦軍によって接収されていた。ここに、東京と岡山を比較するもう一つの軸が現れる。それは、
アメリカ型の看護改革と、英連邦軍による占領・医療環境との交差
である。ただし、ここで注意しなければならない。岡山模範高等看護学院そのものを、単純に「イギリス主導の学校」と断定することはできない。確認できる資料では、学校設立準備にはGHQのカールソンがあたり、榊秀子が責任者となり、東京模範学院から聖路加卒業生が移動して支援している。
本稿の作業仮説として、
東京にはアメリカ型改革が直接投入されたのに対し、岡山には英連邦軍による占領・接収を経験した病院という異なる制度的・医療的環境が存在し、その上にGHQの看護改革が重ねられた
と捉えて。本稿の目的は
二つのモデルスクールを比較することで、見えてくる違いと意味を解明する
ことにある。
1 東京――「看護をどう教育するか」という実験
東京看護教育模範学院の特徴は、第一に、看護教育そのものの再設計にあった。戦後のGHQ/SCAPによる看護改革は、単に「看護婦を増やす」政策ではなかった。看護婦を医師の補助者としてではなく、一定の専門的知識と技術をもつ職業人として再構成することが目指された。東京模範学院は、そのための教育モデルであった。
これまでの研究によって、アメリカの看護教育思想や教科書が導入され、聖路加の教育資産も組み合わされた。最初から完成された教科書があったわけではなく、聖路加女子専門学校の教材やアメリカの教科書を参考に授業が行われ、その経験が1947年の『看護実習教本』へと結びついたという定説は、その通りである。ここでは、何を教えるのかだけではない。
誰が教えるのか。
学生をどのように扱うのか。
臨床実習を教育としてどう位置づけるのか。
看護婦を医師の「助手」ではなく、独自の職能をもつ専門職としてどう位置づけるのか。
こうした問題が、一つ一つ試された。したがって東京模範看護学院を「看護をどう教育するか」を実験した学校と見る分析視点は正しい。
2 しかし東京にも「現場の論理」があった
しかし、話は単純ではない。看護教育を近代化しようとすればするほど、病院現場では別の問題が発生する。
看護学生は「学生」である。
しかし病院にとっては、深刻な看護婦不足を補う重要な労働力でもある。
日本赤十字社の資料にも、戦後の看護婦不足のなかで、病棟看護が学生によって維持されていたことが記録されている。ここには、
学生=教育を受ける者
と
学生=病院を支える労働力
という二つの論理が同時に存在した。ここに、占領期看護改革の核心的な矛盾が存在した。GHQが新しい看護教育を導入しても、病院現場には旧来の労務構造が残っている。
新しい看護婦を育てようとする教育制度と、看護実習という名目で、目の前の患者を処理しなければならない病院組織との間には、最初から緊張関係が存在していた。
3 岡山――同じ改革が、別の場所に入った
岡山県岡山市に開校した岡山模範看護学校は、東京の例と異なる。まず国立岡山病院は1945年12月、陸軍病院を引き継いで発足した。ところが翌1946年6月10日、病院は英連邦軍に接収される。接収解除は1947年12月22日であり、その後1948年5月1日に附属模範高等看護学院が設置された。つまり岡山では、東京とは異なる占領・医療環境を経験した国立病院が、戦後の新しい看護教育を担うことになった。議論をするに、
「岡山=イギリス、東京=アメリカ」
と単純化するつもりはない。我々の観点からすれば、岡山では、英連邦軍による占領・接収を経験した病院という特殊な医療環境のなかに、GHQの新しい看護教育政策が入ってきたと考えたい。この両校の設立経緯の違いは、モデルスクールの性格を考えるうえで、決して無視できない点である。
4 岡山のモデルスクールは「GHQの学校」だけではなかった
岡山模範看護学校の設立に関して、さらに興味深いのは、学校設立の主体が一方向ではなかったことである。聖路加同窓会の100年史によれば、岡山では病院長をはじめ病院スタッフ全体が医療・看護改革を求め、関係機関に働きかけたことがモデル校実現の契機となった。準備にはGHQのカールソンがあたり、責任者には榊秀子が就き、東京模範看護学院から白井ら聖路加卒業生が移動して支援したという。榊は湯槙から助言・指導を受け、国立岡山病院の職員も学校運営を支えた。
つまり岡山モデルスクールは、
GHQ → 日本政府
という単純な上意下達によって生まれたのではない。むしろ、
GHQの改革構想
+ 国立病院側の改革要求
+ 聖路加系看護師の教育経験
+ 岡山という地方の医療現場
という複数の力学が重なって成立した。岡山「モデルスクール」の本当の姿を見るに、この点を忘れはならない。
5 東京と岡山の違いを「中央と地方」だけで説明してはいけない
通説では、
東京=中央のモデル
岡山=地方のモデル
と説明されてきた。しかし、それでは不十分であることは、上記した通りである。
|
東京看護教育模範学院 |
国立岡山病院附属模範高等看護学院 |
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設立時期 |
1946年 |
1948年 |
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基本的環境 |
GHQ改革の中心 |
国立病院・地方モデル |
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占領環境 |
GHQ/SCAPの直接的改革空間 |
英連邦軍接収を経験した病院 |
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教育資源 |
聖路加・日赤+GHQ |
国立病院+聖路加+GHQ |
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GHQ関係 |
看護改革の中心的実験場 |
カールソン、ランディーンらが指導 |
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日本側主体 |
聖路加・日赤など |
岡山病院スタッフ、榊秀子ら |
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実験の焦点 |
看護をどう教育するか |
教育された看護を病院でどう機能させるか |
という分析視点を導入すべきであると教える。この表のなかで特に注目したいのは、最後の行である。東京が「教育システム」の再構成に重点を置いたとすれば、岡山ではそれを国立病院という具体的な医療組織のなかでどう機能させるかが問題になった点である。
6 ここで「イギリス主導」という先生の発見が効いてくる
ただし、本稿の論者は、ここで
「岡山には東京とは異なる英連邦軍の占領・医療環境が存在し、その環境の上にGHQの看護改革が投入された」
という作業仮説を提案したい。現在確認できる資料も必ずしも十分に縦鼻されていない。史料的制約の中で、仮説の上に仮説を乗せる危うい綱渡りではあるが、
異なる看護・医療モデルが、一つの日本の病院現場でどのように重なったのか
と考えられるからである。
7 「モデル」とは何のモデルだったのか
ここで「模範」という言葉そのものを問い直す必要がある。「模範学校」がモデルスクールの訳語であったとしても、単に「優秀な学校」という意味ではない。それは、
新しい看護教育を、実際に一つの学校で実施してみる場所
だった。さらに言えば、
そこで生じた問題を観察し、その経験を全国へ移植するための場所
だったと理解できないだろうか。
東京では、教育課程、教材、臨床指導、教師養成などが試された。
岡山では、それに加えて、新しい看護教育を国立病院の現場にどう組み込むかが問題となった。
したがって、二つのモデル看護スクールの成果は、学校そのものの存続期間だけでは測れないだろう。東京模範学院で蓄積された教材や教育方法は全国へ広がった。1947年に作られた『看護実習教本』が全国の看護学校で使用されたことは、その典型である。また岡山では、モデル校の卒業生が後の新制度看護学校の教務主任などに採用され、教育者として全国へ移動していったことが記録されている。
要するに、
看護学校は閉校されても、モデルは移動した。
ここにモデルスクールの歴史的意味を見出したい。
8 Grace E. Altの29回の視察をどう読み直すか
Grace E. Altの29回の現地視察を、単なる「GHQ看護課長の日本漫遊記」として読む必要はない。、
見る
↓
問題を発見する
↓
問題を看護行政上の課題として認識する
↓
指示・制度・人事・教育へ介入する
↓
現場で実施する
↓
再び視察する
↓
政策立案する
という循環を作り出すからである。かりに、我々の想定に誤りがなければ、東京と岡山に設立された両校比較は大きな意味を有する。
東京では、Altらは新しい看護教育をどのように作るかを試す。
岡山では、その新しい看護教育を、別の占領経験をもち、国立病院という異なる組織構造をもつ医療現場に入れてみる。
という図式に逢着するからである。換言すれば、
東京は「教育モデル」を試す場所であり、岡山は「教育モデルが病院現場で機能するか」を試す場所だった。
そして、その二つを結びつけているのがGHQ看護行政なのであったと。
9 研究の視点を変える
このような議論を経て、従来の研究課題が、
「GHQは日本の看護教育をどのように改革したのか」
とだけ理解して行ってきた従来の研究の問題点が浮かび上がるにちがいない。我々が究明すべきは
GHQが作ろうとした新しい看護は、異なる占領・医療環境のなかで、どのように日
本の病院組織へ組み込まれたのか。
という問題設定に直結するからである。さらに一歩進めれば、
アメリカ型看護改革は、英連邦軍の占領・医療環境を経験した岡山という現場に入ったとき、東京と同じ姿で実現したのか。
という問いにも発展する。
本稿の分析視点は
東京ではアメリカ型の看護改革が前面に出た。
岡山では英連邦軍による占領・接収を経験した病院という異なる環境のなかに、GHQの看護改革が入った。
という構図であった。この違いの背景を説明するならば、、
占領者
→ 医療制度
→ 病院組織
→ 看護教育
→ 看護婦の仕事
→ 患者へのケア
という連鎖を考えさせる。目の前には、日本全土が焦土と化し、崩壊した医療システムと、外地から多数の帰還者・引揚者らによる伝染病対策。食糧難による栄養失調、さらには絶対的に不足した医療用ベットと医薬品など、山積する問題に果敢に挑戦しなくてはならない。一瞬も待っていられない現実との闘いであった。
それだけに、GHQによるアメリカ式制度が現場に入ったとき、
誰が動き、誰が抵抗し、誰が翻訳し、誰が実行し、どこで制度と現実が食い違ったの
か
は喫緊の課題でもあった。
おわりに――「英国主導」を証明できなくても、研究は前に進む
現在の段階で最も堅実で、しかも研究として面白い命題は、
占領期日本の看護改革は、単一の「GHQモデル」の移植ではなかった。
東京と岡山という異なる医療環境のなかで、GHQの看護改革、英連邦軍による占領経験、日本側の看護教育資源、そして病院現場の改革要求が交差しながら、新しい「看護」が形成されていった。
であると提起したい。しかしながら、ここで最大の謎が残る。
なぜ岡山だったのか。
なぜ全国の地方モデルとして、国立岡山病院が選ばれたのか。英連邦軍による接収経験は、その選択に何らかの意味を持っていたのか。GHQのカールソンは、岡山について何を見て、何を「モデル」と判断したのか。そしてランディーンは、岡山病院の看護を何から変えようとしたのか。
今後に残された課題は、近日中に公表する計画であることを予告しておきたい。
追記)本稿の最初の着想は、山本智子先生(福岡看護学校)との対話にあった。深甚の謝意を特記したい。しかしながら本稿はすべて論者の見解であり、誤りや誤解があれば、それは論者の責任に帰す。
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